これって本当?〜平等と不寛容は異なる

年に一度の楽しみ、アカデミー賞授賞式が終わりました。90回を迎えた今回は、一連のセクハラ問題がどのように扱われるのかも注目されていました。
司会のジミー・キンメルの姿勢と、各受賞者とそのスピーチ(“Three Billborads Outside Ebbing, Missouri”で主演女優賞を受賞したフランシス・マクドーマンドさんのスピーチは圧巻)、そして受賞作に多様性が見出せる結果を見せることで、その答えを提示したように感じました。たかが映画の賞と侮ること無かれ。アメリカの巨大な輸出産業ですから。毎度ながらWOWOWで、朝の生放送と夜の字幕版、両方観て、堪能しました。

 

ちょうど、同じ日。参議院予算委員会で、働き方改革や所謂モリカケ疑惑を巡っての議論が行われていました。ご存知の通り、今も続く焦点の一つが「忖度」。財務省厚生労働省の官僚がモラル無き忖度の結果、首相に都合のいい数字や書類を作っているという指摘。官僚たちは本当に首相に阿っているのでしょうか。
ちょっと前まで、官僚の給与が高過ぎるとか、待遇が良すぎるとか、さまざまな批判を繰り広げてられていました。さらに公立学校の教職員や、NHK職員など公的な職業だと思われている人たちにも同様の批判が、執拗に向けられていました。結果、給与が下げられたり、待遇が変わったり、通例だった人事の流れが変わったりしました。そう、高級官僚と括られる人々の退職後の転職、天下りの制限などです。もちろん、天下りにも問題はあります。それに伴い、許認可等への影響が取り沙汰されるからです。でも、はっきり言って、超ブラックな環境で安い給与で働く官僚の唯一の希望は、退官後の天下りで、公僕として得られなかった待遇(=お金)を取り戻すことだったのではないでしょうか。
そうなれない人がいるのだから、不公平だって?運が良かったかも知れませんが、そもそも精一杯、その人の能力を発揮できるように働いた人が、それに応じた報酬を得ることに何の問題があるのでしょう。機会均等と結果としての平等は、意味が異なります。暴論かしら。
官僚のモラルを破壊したのは安倍首相でしょうか。そうかもしれません。でも、なんでもかんでも首相のせいにするのはやめましょう。官僚が首相の意向に阿っているとすれば、それは役人は安い給与で働いて当たり前と、批判し続けたからなのでは。それこそ、働き方改革とセットで待遇を変えていかないと、ブラック度合いだけが進行します。
平等であることは機会が均等であることだと思います。前提です。しかし、他人の状況への不寛容、特に自分より何かが上だと感じられることへの不寛容は、単なる嫉妬です。結果を見て、時間を遡った感情を今に持ち込むことです。今さら、どうにもならない。
人に媚びへつらおうと、サボタージュぎりぎりの働き方をしようと、または身体的など何らかの理由によって精一杯働けない働き方をせざるを得ない人と、いろいろな状況をあることを許しましょう。その結果は、それぞれにもたらされるものは一概に同じにはできない。だから、いろいろな“救い方”を設けるべきです。極端なことを言えば、敗者復活戦に参加できる社会にすることです。

異なること、他と違うことを許さない社会になっているように感じます。企業では、そういう時に、コンプライアンス上の懸念という名の一律を強いるのは、全くもっておかしい。今、そこにあるルールと異なった状況があった場合、直ぐに他と異なるから、やめましょうということが多いように感じます。違いこそが最も評価されることなのでは。均質を求めて、組織を自分が知っている人で固める派閥人事を行い、タコツボ化をもたらすだけになっている企業が多いように感じます。

高品質が売り物だった日本製品の品質を疑わせる、大企業におけるデータ偽装事件が続いています。日本製品は高品質だという見かけはハリボテのようなもので、実際は足元から揺らいでいる状態。そう思いたいという気持ちだけが残っているだけなのかもしれません。まるで旧日本軍が主観的願望を客観的事実にすり替えて、戦争の見通しを立てていたとのと同じ。この旧日本軍の指導者たちの為体は、均質な組織、異質な人を排除した結果出来上がった組織の結果だという説もあります。
この不祥事の連続は、日本社会が、違いを許さない不寛容な社会になりつつある証左なのではないかと思うと恐ろしくなります。失われた10年の最悪のガンクは、この不寛容なのではないでしょうか。

アカデミー賞授賞式に、“In Memoriam”という過去1年の間に亡くなった方を追悼するコーナーがあります。音楽と共に、その方々の肖像がスクリーンに映しだされます。その一人として、初代ゴジラの中の人、スーツアクター中島春雄さんのお姿が登場しました。思わず、あっと叫びそうになりました。スーツアクターモーションアクターが、俳優としてアカデミー賞の候補とすべきかという議論があります。2011年公開「猿の惑星:創世記」から始まるリブート三部作で主人公の猿であるシーザーを演じたアンディ・サーキスを巡っての議論です。中島さんの扱いは、この議論の結論が出る兆候かも知れませんね。ここでも一歩、前に進んでいることを感じさせられました。

 
受賞式のクライマックス、作品賞の発表で、ギレルモ・デル・トロ監督の作品“The Shape of Water”が受賞しました。そのシーンを受けた日本のスタジオで映画評論家の町山智浩さんが感極まっていました。やっと、このような作品が認めれられるようになった。いろいろなことが変わります、と。
黒人が主人公だとか、LGBTが主題だとか、怪獣やゾンビが出てくるとか、女性監督の作品だとか、そういう作品はヒットしない、またはアカデミー賞の候補にならないという一線は、昨日をもって無くなったのです。デル・トロ監督のスピーチにありましたが、多様性とその寛容が、映画にあらゆる境界線を越えさせることを見せた日でした。
そんな日でしたが、僕は突然、藤子・F・不二雄さんのSF短編「老年期の終り」(1978年)を思い出しました。若い人がどんどん減る。働くことを避けるようになる。他人との違いを許さない。
これって、なんとかしましょうよ。

 

追伸:念の為、申し上げておきますが、安倍首相に何らかのシンパシーを感じているものではありません。