アマチュアのプロレス(2)~コピペ、そしてフェイクニュース

続きですが、毎度ながら迂遠な話から始まり恐縮です。

フェイクニュースやDeNAWELQの、一連の“事件”の中で、会社員だった頃を思い出しました。マスコミの新入社員でしたので取材をするのですが、最初の頃、なんか変だなぁと思っていたことがありました。その頃、取材というのは、誰にでも話しを聞いくのはタダ(!)だと教わっていました。情報を持っている人に電話をして訊ねたり、訪ねて行って話を訊いたりするのは、当然だということです。でも相手にとっては、自分の時間を僕の取材のために割くのですから、立場に拠るとは思いますが、迷惑に感じていたかも。そうそう、会ってお話が聞ける方には、会社のちょっとしたノベルティグッズを差し上げたりはしましたね。でも、電話なら、その場限り。
見ず知らずの人の家に電話して(携帯電話の無い時代でしたから、家の電話!それも人から電話番号を聞いて掛けていました。個人情報なんて概念、全くありませんでしたね)、会社名と名前を名乗って、すぐに質問に入ってました。
これを思い出しながら、時系列を無視した、こんなことを考えました。どこかに、その人の知識が公開されていて、そのまま引き写すことが出来れば簡単だったのに。おや、それはなんだか、ネットに書いてあって、それをコピペして。。。というのに似ています。しかし、それは取材行為と言えるのでしょうか。

 

コピーして、(自分のどこかに)ペーストするのは取材なのか。本屋さんで雑誌の立ち読みから写メ(なかなか死語にならない言葉ですね)でのメモは、なんとなく行為としてNGですよね。なんか盗んでいる感じがします。では大学の授業でノートを取らず、教師の板書を撮影して済ますことを諾としますかね?
知識(=情報)は、文字が出来て、さらに印刷が出来るまでは、人の脳にだけ在りました。コミュニケーションによって、一人の人の脳から、他人の脳に“移動(=ペースト)”させるわけです。逆に言えば、一人の脳から、他の人の脳にコピー&ペーストできないために教育がある、という意見をどこかで読んだことがあります。(出展を忘れてしまいました。そして見つけられない。ほら、コピペできたら出展も明らかに出来るのに!)。

コピーにつきまとう、微妙な罪悪感(=拝借感、かな?)を払拭するのに必要なことは、その出展を明記することでしょう。引用または参考としての出展。このようなブログでも同じですよね。どなたかのブログに書いてあったオリジナルなことを転記する場合は、出展を明らかにするのはルールです。オリジナル、がキーワードでしょうか。そこに創作性(この言葉に法的な厳密性は考えていません、とりあえず。)があるからでしょう。
長野県知事衆議院議員だった田中康夫さんのデビュー作「なんとなくクリスタル」(1980年)は、本文描写に加えて、脚注に注目が集まりました。ネームドロッパーとしての面目躍如。この脚注が単なる引用ではなく、批評性に溢れたオリジナルであったことが注目された理由でした。当時はあまり意識せず、読んでいましたが。

 

33年後のなんとなく、クリスタル

33年後のなんとなく、クリスタル

 

 


出展が明らかではない情報は、往々にして、間違いを生みます。つまり、コピペの過程で、元の情報が濁ると言うのでしょうか、勘違い、思い込みが加わり易く、また単なるコピペミスも生じがちです。まるで、正常な細胞からガン細胞が生まれるみたいに。

「学ぶ」という言葉は、自主的に、自分一人で出来る行為です。一方、「習う」という言葉は、「人から」学ぶ行為です。これから考えると、コピペが学びでないとは言えないでしょう。料理や工芸などの分野で言われる、先輩のもの(行為)を見て盗む修行も教育の形態の一つでしょう。伝統芸能などでは、先輩や師匠の完全コピー=完コピを目指すのが、まず最初の到達点です。でもこの場合は、それは通過点であり、その上に自分なりのものを加えて出来上がる姿が終着点です。

蜂蜜を加えた離乳食が原因で赤ちゃんが亡くなったという事件がありました。生後一歳未満の乳児にとって、蜂蜜は危険な食材です。でも、そのことをお母さんはご存じではなかった。悲しい事件です。さらに、料理のレシピサイトとして知られるクックパッドの268万にも及ぶレシピの中に、蜂蜜を使った離乳食のレシピが140余りが公開されていることがわかりました。検索してその結果を、ネット上で皆さんが公表してくれましたので。(豚肉の生食レシピなんてもあったようですね。強烈だなぁ。これらのレシピは4月上旬に閲覧出来なくなったようです。)
当たり前の言い換えですが、ある時期までの乳幼児には蜂蜜は有害だということを知らないのは、その知識がコピペされていないということ。また、クックパッドのレシピの中にある間違いを、正解として“学習してしまう”原因は、コピペの元に間違いもあるということに気づいていないから。

フェイクニュースが問題なのは、それ自体がまったくの事実ではない情報であることに加えて、多くの人がそれをコピー&ペーストの上に拡散させる、という2つの側面があります。
はっきり言って、フェイクニュースは、ニュースという「新しい出来事を伝える仕組み」の悪い面、ダークサイドです。両面宿儺。表裏一体。ジェダイとダーク・ジェダイのようなもの。ずっと存在しています。最近やっと、その存在が認知されただけです。マスコミのニュースだって、フェイクニュース並みの問題ニュースがありますよね。

さらに言えば、既存のマスコミは信頼できない、事実は市民が自ら伝えるのだ、という市民ジャーナリスト時代の黎明期にあることも、関係しています。この市民ジャーナリズムという手段の悪用がフェイクニュースの隆盛を招いています。オカルトや陰謀論の傍証が「ネットにある」というのと同じです。

プロであるマスコミでは公表の前に間違いを見つける過程があります。それも取材した本人ではなく、他人の眼を通すのが普通でしょう。校正とか試写。その過程がない立場の人が、事実だとしてニュースを公表するのは、結構危険。もちろん自分が見たことだから、間違いないと言うのかもしれません。でも先達が言っているじゃないですか、藪の中って言葉を。それに個人の意見や感想を開陳するのが記事ではないはずですが、マスコミのくだらないニュースを見て、逆にその程度でいいのだと勘違いしている人も多々いらっしゃいます。教師、先達って、大事だなぁ。(多くの人の眼を通ることで、元の情報が曲げられたり、薄められることも起こりえます。多くの人は、これがマスコミが持つガンだと思っていますよね。)

情報を扱うには、やはり訓練を受けたプロが必要です。またプロフェッショナルがプロフェッショナルたる課程が必要です。人間には限界があり、一人で全てのことを満たす、つまり万能であることは出来ないので、分業というやり方が生まれ、それぞれの道のプロというのが存在するようになったのではないでしょうか。情報を扱う場合も一緒です。プロとして経験は、放送局や新聞社、出版社に勤務していたということは違います。勤務していたって、プロではない人はたくさんいます。この場合のプロとは、「間違い」の恐怖を知っている人なのではないでしょうか。そして間違いを見つけた経験があり、間違いを見つける経験がある人です。
自分の考えを発表したい人がたくさん存在している。でも、なかなかたくさんの人の目には触れない。そんな“素人”の“知恵”を集めることで、プロを雇い、記事を書かせるより安い金額でサイトが出来上がる。WELQの閉鎖はこのアイディアが招いた結末だと思います。この“素人”は、どんな素人か。手段としての素人、です。手段としての素人は危険です。素人って、エロ検索の危険なキーワードですもんね。

情報は正しいものだけが情報ではなく、間違っていることも情報です。インターネット上に存在する情報、またはそれをまとめた集合知と呼ばれるものには、正誤がごった煮状態になっているものも多いのです。
2015年12月、日本経済新聞社がイギリスのFinancial Timesを買収しました。騒動の最中、「日経という会社のことを知らないので、Wikipediaで調べてみるわ」と言っているFTの従業員のインタビューがありました。たしか軽い路上インタビュー。それを見たのか聞いたのか、ネット上で「Wikiなんかで調べてみるなんて言う程度だから、日経に買収されるんだ」と書いている人(一般人だったかな)がいました。でも、Wikipediaは、まさに毀誉褒貶という意味で読めばいいのです。間違いも含めて、まずwikiで調べるのが、何が問題なのか。wikiを鵜呑みにせず、概観として受け入れ、その上で、何事かを判断する態度が必要なのではないでしょうか。調べるだけではなく、そこから生まれる判断が大事ですよね。

コピペという行為は、避けられない、止められない行為です。だって便利だもの。インターネット時代、取材方法としてのコピペは確立した手法です。なので、もう一段階、高いところを目指しましょう。プロとアマの差は現前としてあるのだから。情報の価値とその是非を判断し発表=公開しましょう。間違いが在った場合とその間違いを認めて、訂正することも厭わないプロの「コピペスト」になりましょう。これぞインターネット時代の情報発信者の在るべき姿ではないでしょうか。そして、もう一つ大事なこと。アマチュアのコピペストは存在しない、と決めましょう。

当たり前のことばかり書いている?うーん、アマチュアのブログだから許してください。