オルタナファクトの世界に住んでいる透明な人たち

昼下がり、ちょうど1時過ぎでしょうか。30年前から通っている中華料理店に入って、ランチのB定食を頼みました。内容は、豆腐と海老とイカの旨煮。毎度、店の前を通りかかって、これか、海老の卵とじ炒めのどちらかがメニューに上がっていると、ついつい寄ってしまいます。
 

さて、この時の大きな丸テーブル2つと4人掛けテーブル席6つの店内、ちらほらとお客さんがおりました。私は丸テーブル。程なく、定食が運ばれてきて、早速堪能。ここである光景を目撃しました。
もう一つの丸テーブルにいた男性が挙手して、「すいません」とお店の方に声をかけました。微妙なタイミングでしたが、テーブル席の1つにいた60代くらいの女性3人組の1人も、グループの人と喋りながら、ほぼ同時に挙手しました。店の方がやってきます。先に男性に気づいたようでしたので、男性に近寄ります。そこで、男性が「あ、向こうが先かな」と言いました。お、いい人じゃん、ジェントルマン、と僕は心の中で喝采。お店の方が女性に近寄り、「はい?」といいました。何かご用ですか、という声かけです。しかし、その女性、「え?ただ手を上げていただけよ」と返して、仲間とのお喋りに戻ったのです。それも謝りもせず。先ほどの男性も「なんだよ」と呟いたのが聞こえました。
僕は超びっくり。店の人にとってはサービスの一環とはいえ、女性は自分の行為が引き起こしたことなのに、何事もなかったかのように、お喋りを続けていました。

この人はどういう人なのでしょうか。「私はただ手を上げたいから、上げていただけ。店員は勝手に寄ってきたのだから、知ったことではない。」と思っているか、そもそも何も思っていないのか。でも、「私はそんなつもりはない。だから他人がどう解釈しようが、知ったことではない。誤解があっても責任はない」という態度を見てしまいます。こういう人、とっても多いように感じます。どんどん増えている。「そんなつもりじゃない」症候群にかかっている人。他者に対して無関心な人たち。

2005年7月のロンドンでの同時多発テロの際、監視カメラが犯人の特定に大きく寄与したと言われています。当時の記事を当たってみると、既にイギリス国内には428万台の街頭監視カメラがあり、ロンドンの地下鉄には6000台、市内のバスの65%にあたる5200台に車内監視カメラが設置されている状況でした。街頭のカメラは、150メートル離れた人物の表情もとらることが出来るそうです。ロンドン市内を歩く場合、1人当たり1日最高で300回映り込む計算になるというくらいのメッシュで設置されています。イギリス政府は、この監視カメラのお陰で、テロが未然に防がれているとも言っています。(もちろん万能ではありません。ご存知の通り、テロは起きます。)

日本でも犯罪が起きると、主な幹線道路に設置してあるNシステム(自動車ナンバー自動読取装置)やコンビニのカメラを筆頭に、さまざまな場所に設置されている監視カメラの映像によって、解決の糸口が見つかることが多くなっています。今後は、新幹線そして山手線のような在来線にも、カメラが設置されてようとしています。痴漢と痴漢冤罪、それぞれ、これにより減るといいですね。

監視カメラについて、プライバシーを侵害するという意見があります。しかし、これらの“監視装置”が無かったら、どうなるのでしょうか。少なくとも今より、犯罪を行った人たちが検挙されるまでにかかる時間と手間が増えるでしょう。なぜなら、他者への無関心な人が増えているからだと思います。もしかしたら、他人への無関心、つまり他者を見ていない代わりに、カメラがその役割を果たしているのかも。
先に言っておきますが、いわゆる共謀罪、改正組織犯罪処罰法の是非とは別です。法律の恣意的な援用によって、政権や権力者と言われる人たちの意向の通りになるのはまっぴら御免です。検察の特捜部なんて、往々にして今までも結構、この傾向がありましたからね。

話を戻します。街頭に監視カメラが増えることで、プライバシーが侵害されると言う人がいますが、プライバシーとは、そういうものでしょうか。誰が見ていても、見ていなくても、行ってはダメなことはダメなのでは。だから、少なくとも街頭で行うことは、誰に見られても恥ずかしくないことでしょう。インターネットも含めた最新技術による便利さのもたらす不安とでも言うのでしょうか。それを徒らに強調しても、意味がありません。また、関連して、電子メールの秘匿性についても議論があります。でも、そもそも「絶対に」という言葉は技術的にあり得ません。読もうと思えば、電子メールなんていくらでも他人に読まれる可能性があるのです。インターネットセキュリティの専門家から聞いたのですが、ハリウッドの映画関係者はGoogleGmailは絶対に使わない、とのこと。その理由は企画の秘密が漏れるからだそうです。たとえ個人が特定されていなくとも、ある地域で飛び交うメールの中に一定の言葉が多く含まれていれば、企画の方向性などが推測できるからだそうです。成り立ちから言っても、電子メールなんて、そんなものです。郵便と同じ、読まないという紳士協定が前提になっているだけです。

イタリア人の友達に「イタリアではアルカイダのテロ、無いね」と訊いたら、マフィアがいるから大丈夫だって。つまり、日常生活の中にマフィアが入り込んでいるから、彼らの知らない人たちが集まって、何か相談していて、剰えテロを企ていたりしたら、すぐにバレてしまうからだと言うのです。嘘のような本当の話。これは監視社会と言いますかね?

「我々はもっと守られるべきだ。でも監視するな。」最近の問題の至るところに、このような感覚的な矛盾を孕んだ主張がなされているように感じます。構ってもらいたいけど、自分のテリトリーには入って来て欲しくない。そして、これは「そんなつもりじゃない」症候群の裏返しでしょう。
「そんなつもりじゃない」症候群にかかっている人は、自分はさまざまなことから圏外にいる、つまり関係ないと思っているのです。しかし、それは頭の中、お花畑状態。実際の世の中の流れと異なる、それこそ自分の思いだけで出来上がっているオルタナファクトの中で生きているに過ぎないです。他者への無関心の裏返しです。他者が見る自分があることを忘れている人。輪郭のある透明な人たち。
「ただ、手を上げていただけ」と答えた女性、他者としてこの光景を見たら、どのように思うのでしょうか。また、自分が店の人だったら、どのように感じるでしょうか。
話が飛躍しているようですが、オルタナファクトという言葉に象徴される事態は、このような日常の中の潜んでいます。やっぱり、忖度ばかりじゃ、ダメなんじゃないですか。

自分に足し算、引き算ーオルタナファクトを生む慢心

1日に2回はスターバックスに立ち寄っています。日課ですね。家に近い店、事務所に近い店、得意先のビルの地下の店、いくつかの“定点”のような場所があります。アイスラテを飲まない日はほとんどありません。この稿も、いつものスターバックスで書き始めました。

元々、僕の家にはコーヒーを飲む習慣がありませんでした。昭和の普通の家でしたから。また子どもの頃、コーヒーは身体に悪い飲み物だと言われていました。そんな思い込みもあり、何かの機会に飲んでも美味しく感じませんでした。そのほとんどがインスタントコーヒーだったことも、その原因の一つだったと思います。缶コーヒーもイマイチ、嗜好に合わなかったなぁ。そうそう、缶コーヒーって、1日に7本飲むヘビーユーザー、それも男子が主なユーザーなんですってね。

大人になってから、料理に関わる仕事をしていた時、そう1990年くらいのことだと思います。有楽町にあるフランス料理店アピシウスの高橋徳男シェフとお仕事させていただいた時のことです。アピシウス、ご存じですよね。その頃も黄金期でした。店内の調度品は最高級、その中に本物のマネやモネの絵画、ロダンの彫刻がさりげなく、配置してあるお店でした。キッチンも広くて明るくてピカピカ。日本中、そしてフランスから最高の食材が運ばれてきていました。ちょうどジビエの季節でした。今まで本でしか読んだことの無かったジビエが目の前に。さらに、素晴らしいワインリスト。

メニューの設計図

メニューの設計図

 

 
お客としては、ほんの2、3度しか伺ったことはありませんが、満腹中枢を乗り越えそうなくらいに食べたくなるメニューが並んでいました。さらにご記憶のある方も多いと思いますが、デザートに加えての果物の数々。未知のものばかりありました。名前を覚えていないのですが、南洋の果物。緑の皮の下は白いクリーム状の果肉。こいつがあったのです。スプーンで掬って食べるのですが、自分がアレルギー持ちであることを忘れて口にいれた瞬間、口の中全体に針が刺さったような刺激で飛び上がったことを覚えています。変な思い出ですが。やっぱり南洋のものは要注意。

そう、そのアピシウスのコーヒーが、僕の美味しいコーヒー初体験でした。打ち合わせに伺ったある昼下がり。コーヒーが出ました。美味しい!これがコーヒーの味なのか、初めて知りました。温度も適正だったことを覚えています。
フランス人は猫舌だと言われていますが、本当なんでしょうか。確か、日本から進出したタコ焼き屋さんが、苦戦した理由がこれだそうです。フランス人は、タコ焼きが熱くて食べられない(「情熱大陸」で拝見した記憶です)。そう口に入るものは、温度も問題です。毎度の脱線話ですが、惚けた老人の食生活を調べると、冷たい甘いものを好む男性が多かったという話を訊いたことがあります。これ、僕のこと。

果たして、どんなコーヒーが美味しいのか。サードウェーブと呼ばれる、いわゆる、意識高い系のコーヒーがよくわかりません。美味しくないのです。深炒りされて出た酸味がイマイチ。それに温度も高い。さまざまな研究の結果、それがコーヒー豆の本来の味を引き出すことになると言うのですが。これって、妙な例えなのですが、出汁の使い方に近いような気がします。なんでもかんでも一番出汁を使えばいいというわけでもないのです。その理由は美味し過ぎるから。和食のコースで言えば、椀だけでいいのです。一番出汁を使うのは。もし、深炒りのコーヒーが一番出汁なら、それ一杯飲むだけの時はいいのではないでしょうか。(僕はそもそも美味しいとは思っていませんが)その材料の一番濃い持ち味を出すことだけが、素材を生かすことではないと思うのです。過ぎたるは猶及ばざるが如し、ですかね。さらに考えれば、食事の流れの中、1日の生活の流れの中で、コーヒーという飲み物の在り方をどこに置くか、でしょうか。

 

ちょっと前ですが、面白い言葉に出会いました。NHKの番組「プロフェッショナル 仕事の流儀」で取り上げられていたフランス料理のシェフ、浜田統之さんの言葉です。浜田さんは、新しいコンセプトで知られる旅館、星野グループの高級旅館、東京駅そばに出来た「星のや東京」の料理長です。フランス料理の技量を比べる、ポール・ボキューズコンクールで日本が第三位になった時のメンバーです。彼が番組の中で、いろいろな試行錯誤を行いながら、「フランス料理は足し算」だと言っていました。面白い。一方、思い出すのは、僕が若いころ、よくお邪魔していた三田のコート・ドールの斉須政雄シェフは「引き算」だとおっしゃっていたことです。僕的には、浜田さんが取り組んでいた素材がカスベ(エイ)で、斉須さんにお話を訊いた際の料理もカスベを素材にしたものだったので、さらに面白く感じました。これは、どちらが正しいかということではなく、それぞれのアプローチだと思うのですが、ちょっと面白い対比です。

調理場という戦場―「コート・ドール」斉須政雄の仕事論 (幻冬舎文庫)

調理場という戦場―「コート・ドール」斉須政雄の仕事論 (幻冬舎文庫)

 
少数精鋭の組織論 (幻冬舎新書)

少数精鋭の組織論 (幻冬舎新書)

 

 

足すのか、引くのか。意識高い系のコーヒーが美味しいか、美味しくないかは、個人の味覚の問題なので、絶対的なものではないし、そもそも味覚は個人的なもので、かなり思い込みの産物であることが多く、客観的ではないことは自明です。でも、 どうしても自分の味覚が絶対的であることを主張したい人々がいます。例えば、関東は味が濃く、関西は味が薄味、というヤツですね。この手の人は、これが昂じると、関西人は味がよく分かる、に転じます。やれやれ。(関西のお住まいの方、全般を指しているわけではありません。あしからず。)また、釣ったばかりの魚が一番美味しいと主張される方と話すのも苦手です。釣り上げたばかりの魚は、水温と魚の体温が微妙なので、まず美味しくない。でも、それが気にならない方がいるのです。そう、自分の感覚を絶対的なものだとして、それを根拠に何かを語られると対処に困ります。でも昨今、こんな人がとても多い。困りましたね。そういう人に限って必ず言う言葉「私がそう思ったのだから、間違いない」。

これがオルタナファクトそのもの。料理の於ける足し算、引き算の喩えは、言い得て妙な表現です。これでいいと感じた時に一つ足す、または一つ引く。これが客観的な視点を作るのはないでしょうか。どんな時でもできるかな。

オヤジとオヤジ殺しが向かう先ー忖度に下衆の勘繰り

最近、「三大動画アプリのユーザー/使われ方の違い」という記事を読みました。「ニコニコ動画」「AbemaTV」「YouTube」を三大動画としているのですが、そもそも、その括り、意味があるのでしょうか。(その記事の内容には格別の感想はありません。あしからず)

 

この違和感、どこから来るのか。それは、それぞれの向き先と将来像が異なるものなのではないかと思うからです。つまり、事業の方向性が違う。「YouTube」はついにアメリカでテレビの同時配信を手中に収めようとしています。あらゆるコンテンツの窓口にならんという意志ははっきりしています。でも「ニコニコ動画」「AbemaTV」はどうでしょう。そう、極端なことを言えば、「ニコニコ動画」も「AbemaTV」も最終的に「YouTube」の1チャンネルでしか成り得ないような気がします。失礼ながら、所詮、趣味のチャンネル。PCやスマホで見るもの。昔、ソニー出井伸之さんが、画面の大きさとコンテンツにかける費用は比例すると言っていました。その通りでしょう。(平井体制のソニーが黒字になった途端、出井さんがソニーをダメにした=OBたちからの出井戦犯論のが消えましたね)そう、だから、なんだかんだ言っても映画は滅びない。

 
ネットワーク観というか、コンテンツ観というか、映像コンテンツのインターネット配信に関する大局観がない事業者は、所詮、土管の出口。現行のテレビの縛りに囚われないことだけが利点のバラエティが売り物なら、そこで終わり。
電波だけではなく、今やブラウザーの能力も上がってインターネットコンテンツも楽に見ることができるテレビ。画質や音質もいい、使い易いテレビという道具を捨てさせることができるのでしょうか。どこまで考えているのだろう。

まあ、テレビ事業者も放送の同時配信を巡ってスッタモンダしていますから、同じレベルです。NHKは、本来業務だと言ったり、附帯業務だと言ったり、ふらふらしていますね。(ところでNHKは誰を忖度しているのでしょうか。国民?)一方、民放にとっては費用がかからないことが大きなテーマです。インターネットで配信したからって、視聴者がそれほど増えるもんでもありませんからね。これは共通理解でしょう。

漠然とですが、上に立つ人たちのアタマの中に、インターネットを介した映像コンテンツ配信に関して、これからの姿がはっきりと出来上がっていないのではと感じます。


だいたい、インターネットへの理解というか、体感に関して、ちょうど60歳手前くらいのところに、見えない線があるように思います。彼らは体感できていない。でもトップにいて、なんらかの方向性を出さなければならない。
NewsPicksで読んだホリエモン高城剛さんの対談の中で、「バブル崩壊以降、日本は完全にピラミッド構造になって、忖度システムになりました。それをガバナンスと言い換えています。だからトップの力量で未来が予測できるんですよ。」と高城さんが言っていました。その通り。

硬直化した組織のトップにいる、忖度されることが好きなオヤジさんたち。
でもこのオヤジさんたちは迫り来るインターネットに対して、なんらかの方針を出さないといけません。そうなるとオヤジ殺しが得意な人が、そのオヤジさんたちの喜びそうなこと(=理解できそうなこと)を忖度して、提案してきます。
ドワンゴ川上さんのオヤジ殺し力は凄まじいものがあります。ゴルゴ13並かと(どちらにも、お会いしたことはありませんよ)。あのNHKでも、一時、どの幹部たちの机にも、川上さんの著書「鈴木さんにも分かるネットの未来」(岩波新書)が置いてあったという噂があります。また、渋谷で働く社長、藤田さんも、オヤジ殺し力が凄そうです。テレビ朝日の会長さんを動かして、AbemaTVを始められましたね。

 

このオヤジさんたちの隆盛がどこまで続くのか。またオヤジ殺しを行っていた人たちが、その地位に到達した時、また次の世代にどのように接するのか、それによって、この国の未来が変わってしまうように思います。
そうそう、IIJの社長さんがいつの間にか、超強力で有名な元財務事務次官の方になっていたり、力があるとされるオヤジさんたちが、日本では国を変えるような新しい分野の会社でも力を奮っています。いろいろなところから、オカネを持ってきてくれるからでしょうか。
JR東海リニア新幹線に作るのに、3兆円以上かかるらしいですね。足りない分は国費で補われるとのこと。これはどうみたって、JR東海の会長さんのお力でしょう。でも想像力豊かな僕は、リニア技術が航空母艦の電磁カタパルトに転用できるからなのではと下衆の勘繰りを働かせてしまうのです。
アメリカの空母の攻撃力の高さを象徴する技術の一つが、カタパルトです。
短い時間にたくさんの航空機を発艦させることが出来ることは、攻撃力の高さにつながります。現在、カタパルトの技術は、アメリカにしかありません。原子力エンジンの熱から生まれる蒸気を使ったものです。
そして次世代のカタパルトは、電磁力を使ったものです。次期主力空母(ジェラルド・フォード級)は蒸気カタパルトではなく、電磁カタパルトを採用しています。イギリスと一緒に開発しており、それを中国のスパイが盗んだとかいう話もありましたね。リニア新幹線の技術との共通点はどうなんでしょうか。
中国の上海では、市内から郊外の浦東空港との間、およそ30キロをリニア高速鉄道上海トランスラピッドで結んでいます。時速431キロで7分30秒の旅です。これはマグレブリニアモーターカーです。その技術を空母に転用はできなかったのでしょうか。調べると上海の方式と日本の方式では、機械とおもちゃの違いほど、レベルが違うとのことです。だから、新しい中国空母にも旧来のスキージャンプ台方式を採用せざるを得なかったのですな。ちなみに僕の好きな漫画家、細野不二彦さんの商社サラリーマンを主人公にしたシリーズ「商人道」に蒸気カタパルト技術の話が出てきます。中国がらみのエピソード。

商人道(あきんロード) 3 (ビッグコミックス)

商人道(あきんロード) 3 (ビッグコミックス)

 

 

JR東海の会長さんは右の論客として知られています。リニア実現に強い意志をお持ち。それはまさか、その技術が空母転用可能技術だということ?だから、国費を入れることが叶った?なんてのは考え過ぎでしょうか。国益?まあ、まさかレールガン開発のため、とまでとは言いませんが。 

オヤジとオヤジ殺しが蔓延るのは、なかなかの状態です。だから忖度がますます流行る。今日は下衆の勘繰りでした。

飛躍への挑戦 東海道新幹線から超電導リニアへ

飛躍への挑戦 東海道新幹線から超電導リニアへ

 

 

宇宙人の意向を忖度するとー日々是決戦

映画「メッセージ(Arrival)」を観ました。1998年に発表された原作「Story of Your Life(邦題「あなたの人生の物語」)」を元にしたSF映画です。この原作は1999年にシオドア・スタージョン記念賞、2000年にネビュラ賞中長編小説部門、という英語で書かれ、アメリカで出版されたSF(Speculative FictionもしくはScience Ficiton)またはファンタジー小説の中から選ばれる賞を受賞もしくはベストに選考されています。ちなみに両賞の受賞作は、翻訳されていても日本では知られている作品は殆どありません。端的に言って、面白い小説が少ないからでしょう。どちらかと言うと、「ふーん、そういう風に考えることも出来るんだ」と読みながら考える、そうSpeculative Fiction、思索的小説に分類される作品がほとんどだからです。

 

あなたの人生の物語

あなたの人生の物語

 

 

映画の中に「サピア=ウォーフの仮説(Sapir-Whorf hypothesis)」が出てきて、大学の言語学の授業を思い出しました。この仮説は、「言語はその話者の世界観の形成に差異的に関与する」つまり、話す言葉によって、現実の見え方が違う、という言語相対性仮説と呼ばれています。「どのような言語によってでも現実世界は正しく把握できるものである」という考え方に疑問を呈しています。
映画のストーリーは、ネタバレにならない範囲で書きますと、ある日突然、地球にやってきた宇宙人とどのように意志疎通を図るか、というお話です。
時間の概念がない言語を話す人たちにとって、現在も過去も未来も同じ“ところ”にあるなら、どうなるか、という原作(あ、これはネタバレか!)に、エンターテインメント的というか映画的要素が加わり、エンディングに向けて、緊張感のあるストーリーが進行します。

しかし、このエンディング。これが不評。毎度ながら、Wikipediaで映画の基本的なデータを調べていたら、いくつかの映画評にあたりました。どれも全く褒めてない。貶しているものばかり。「ご都合主義的なオチに腹が立つ」ということらしく、どうやら、突然、主人公に備わったかのような未来がわかる超能力によって、危機が回避できたように感じている人が多いようです。確かに、それでは一種の夢オチの逆で、今時有り得ないと感じるでしょう。
でも、本当は違うのに。確かに、設定的に重要なセリフが微妙にわかりづらい。字幕は難しい。まあ、万人受けする映画ではないでしょう。すっきり!することもない。でも酷い映画だと喧伝することに意味はあるのでしょうか。私は好きではなかった、と何故言えないのでしょうかね。

うーん、そういう人とどのようにコミュニケーションをとるかが、この映画のテーマの一つでは。人間の意向を忖度するのだって難しいのだから、宇宙人の意向を忖度するのはもっと大変。
劇中に出てくるではありませんか、キャプテンクックがオーストラリア大陸を発見した時、お腹に袋を持つ謎の動物がいたので、出会ったアボリジニ人にあれはなんだと訊ねてみたら、彼らが「カンガルー」と言った。なるほどカンガルーという名前なのかと、以後そのように呼んだ。でも実は、アボリジニ人は「わからない」と答えたのだ。面白い話ですが、これは俗説です。面白い都市伝説です。当て推量から生じた誤解。

とにかく、「メッセージ」は宇宙人の意向を忖度する過程で起きる事件、事態を描いています。忖度、ですよ。
「忖度」とは、他人の気持ちを推し量ること。推量。人間の意向を忖度するのだって難しいのだから、宇宙人の意向を忖度するのはもっと大変。

そう、意志を伝えるのは難しい。意図を伝えるのは難しい。特にはっきり言わない、態度に示さない場合は忖度するしかないので、さらに難しい。
最近読んだNewsPicksでのホリエモン高城剛さんの対談で、高城さんが「(バブル崩壊以降、)日本は完全にピラミッド構造になって、忖度システムになりました。それをガバナンスと言い換えています。」(ちなみにこの一言は続きがあります。「だから、トップの力量で未来が予測できるんですよ。」)とで言っていました。)ピラミッド構造の組織で、下の人が上の人の意向を推量しながら、何かを進めるって、なんという非効率なことでしょう。縦割り組織で、蛸壺化していたら尚更です。

大日本帝國の軍人は文学書を読まないだけではなく、一般の政治書、良識的な啓蒙書も読まない。全て実学の中で学ぶのと、『軍人勅諭』が示している精神的空間の充足感を身につけるだけ。いわば人間形成が偏頗(へんぱ)なのである。こういうタイプの政治家、軍人は三つの共通点を持つ。『精神論が好き』「妥協は敗北』『事実誤認は当たり前』」。サンデー毎日(2017.7.16 )の「一語一会・私が出会った『昭和の怪物』東条英機」の中で、ノンフィクション作家・評論家の保坂正康さんが書いています。教養がないというのは、こういうことなのではないでしょうか。

最後に毎度ながら、ネームドロッピングで。
「もともと、わたくしは浅学にして菲才、どちらかといえば無内容な人間である」「私は役に立つことをいろいろと知っている。そうしてその役に立つことを普及もしている。がしかし、これらはすべて人から教わったことばかりだ。私自身は――ほとんどまったく無内容な、空っぽの容れ物にすぎない」伊丹十三さんが書いてました。日々是決戦。代ゼミではないですが、勉強しましょう。

究極の正方形ーIMAXで楽しもう

フランスの港町、ダンケルクDunkirk)。第二次大戦中の1940年、連合国軍のおよそ35万の兵士がドイツ軍に追い詰められたフランスの港町です。彼らは目の前のドーバー海峡を渡るイギリス本土への撤退の時を待っていました。ドイツ軍は怒涛のような攻勢、そう疾風怒涛の勢いをまだ保ったまま、敗北の思いに打ちひしがれた35万人に襲いかかります。
この戦い、この状況をテーマにした映画、その名も「ダンケルク(Dankirk)」がこの秋に公開されます。監督はクリストファー・ノーラン。彼の作品、バットマンダークナイト」(2005年・2008年・2012年)トリロジー、「インセプション」(2010年)、「インターステラー」(2014年)は僕が何度も観ても飽きない映画です。
ちなみに、もう1本「プレステージ(The Prestige)」(2006年)も、リストに加えています。クリスチャン・ベールヒュー・ジャックマン扮する2人のマジシャンが過去の因縁によって、互いに競い合う物語。何が良いってニコラ・テスラが出てきます。それもデヴィッド・ボウイが、テスラ役なのです。いいでしょう、すごいでしょう(僕だけですかね、そう思うのは)。

【Amazon.co.jp限定】ダークナイト トリロジー スペシャル・バリューパック (4枚組) [Blu-ray]

インセプション [Blu-ray]

インターステラー [Blu-ray]

プレステージ [Blu-ray]



さて「ダンケルク」。映画としての期待もさることながら、技術的にも話題の作品です。ほとんどのショットがIMAX70ミリフィルムで撮影されているからです。クリストファー・ノーラン監督はIMAXを愛してやまない監督として知られていますが、今回は「今までに人がやったことのないことをやってる」と言っているくらい、彼がIMAXで撮りまくった映画なのです。
これを記念して(?)、品川のTジョイプリンス品川で、 IMAX 上映によるクリストファー・ノーラン祭(なんで興行界には、この“祭”という言葉が残っているのでしょうかね。あとはネット内ですかね)が行われていたので、「インセプション」と「インターステラー」のIMAX版を観てきました。

IMAXとは何かについては、単純に言うと「通常の映画で使用されるフィルムよりも大きなサイズの映像を記録、上映する」仕組みです。通常の映画は35ミリフィルムを使います。そしてフィルムが縦に走ります。IMAXは基本的には70ミリフィルムを使い、さらにそれを横に走らせます。結果として、高精細の映像が得られます。解像度も高く、8Kから12Kあると言われています。劇場で上映されるサイズで言うと、スタンダード(STANDARD)と呼ばれる通常のスクリーンサイズは、だいたい2.4対1。それに対して、IMAXデジタルは 1.9 対1、さらにIMAXフィルムの場合は、1.43対1と正方形に近い形になります。よって、IMAXフィルムで撮影された映画を通常のスクリーンで見る場合、上下最大40%以上の映像がカットされていることになります。

 

世界最大のIMAXスクリーンはオーストラリア、シドニーのLG IMAX Theater Sydneyのものが最大です。ただ、そのシアターは現在、リニューアル中。2018年には、世界最大の記録を塗り替える大きさで、公開されるということです。2016年時点でのスクリーンの大きさは、横35.73m×縦23.16mということです。
日本では1996年に新宿(住所は渋谷区ですが)の高島屋タイムズスクエアに出来たのが最初のIMAXシアターです。あるのは知っていたのですが、残念ながら行ったことがありませんでした。現在、首都圏で一番、スクリーンが大きいのは千葉県成田市のHUMAXシネマズで、スクリーンの大きさは横24.5m×縦14mとのことです。スクリーンサイズが大きいことの利点は、なんでしょうか。


僕のIMAX初体験はアメリカのサンノゼでした。ここで観たIMAX映像は、没入感という言葉を思い起こさせます。ダウンタウンのテックミュージアム(The Teck Musium)にあるドーム型スクリーン。その映像体験が、スクリーンの大きさの意味を教えてくれました。

博物館ということもあり、展示の一環として上映室が見えるようになっています。上映作品はだいたい1時間以内のものなのですが、直径1.5メートル以上のロールになっている長大な70ミリフィルムが、横に走るところが見られます。ここのスクリーンの大きさの数値的なデータが見つからないのですが、“8階建てのビルの高さ”と言われています。この大きさですと、視界の全てが映像となり、例えば、映像の中で人が画面の右側で動くと、実際に自分の右側で何かが動いたように感じて、つい首を右側に動かしてしまいそうになります。そう、画面の大きさ故の立体感を感じます。サンノゼに行く機会があると、時間を見つけて何度か訪れています。



品川は初めて訪れました。残念ながらフィルム上映ではありません。スクリーンは都内最大クラス(数値的には不明です)。品川プリンスホテルの迷宮の中にあります。どこにどう繋がっているのか、さっぱりわからない。
インターステラー」は映画館だけではなく、 DVD、さらには条件の悪い飛行機内の上映でも観て、だいたいのシーンを覚えていたつもりでしたが、IMAX版で観ると確かに全く別物。こんなカットあったっけ、という感じで観ることができました。あらためて、「インターステラー」の公開時、シドニーにフィルムIMAX版を見に行った人が羨ましい限りです。

クリストファー・ノーラン監督と言えば、音楽はハンス・ジマーIMAXの爆音が似合う作曲家です。彼の音楽で日本人が一番耳馴染みがあるのが、「料理の鉄人」(1993〜1999年:フジテレビ)のテーマ。ではなく、「バックドラフト(Backdraft)」(1991年)のメインテーマでしょう。他には「パイレーツ・オブ・カリビアン」(2003年〜)や「グラディエーター」(2000年)、そしてトム・クルーズ渡辺謙の共演で知られる「ラスト・サムライ」(2003年)などでも知られています。

バックドラフト [Blu-ray]

パイレーツ・オブ・カリビアン:ブルーレイ・4ムービー・コレクション(期間限定) [Blu-ray]

グラディエーター [Blu-ray]

ラスト サムライ [Blu-ray]

ご存知でしょうか、テレビ放送やラジオ放送で、番組制作の際に、番組の音楽効果の素材(BGM等)を市販の音楽CDから選んで、その一部を(著作権者の同意無く)使っているのは日本の放送界だけ(と言っていいと思います)の慣習です。一応、全くの無料という訳ではなく、事後に使った音源とその長さを報告することにより、関連著作権保持者(社)にJASRAC等から報酬が支払われます。昔はテレビとラジオだけだったのですが、今ではインターネット配信もあるので、著作権の処理の手間を考えると、オリジナルの音楽を使ったほうが安いというのが昨今の大人の事情です。日本以外の国では、著作権フリーの曲を使うのが一般的です。1曲の音楽には、実は恐ろしく沢山の人が関わっていますから。アメリカでの日本語テレビ放送で「料理の鉄人」を偶然見たハンス・ジマー本人が、これは俺の曲じゃん、と言って驚いたという噂もあります。

日本という国はサンプリングが元々、得意だったのかしら。古来から「本歌取(ほんかどり)」という、和歌の技法があります。この言葉、広い解釈では、名作をモチーフにして取り入れ、自分の作品を豊かにするというように捉えられています。リスペクトしている作品の良いところをもらって、自分の作品に奥行きを与える。これって、古い音楽の有名なバックトラックだけ引用(=抜く)とか、今の時代の技術ではどんなことでも可能です。もっとも、行き過ぎた「本歌取」は「盗古歌」(古い歌を取る)であるとされ、平安時代でも批判的な意見があったようです(Wikipediaによる)。盗作かリスペクトによる本歌取りか、その線引は難しいのは昔から変わりません。

ハンス・ジマーの曲はどれも似ているという意見と、何かに似ているという意見もありますが、僕は大好きです。少なくとも映像に相応しい音楽です。映像に加えて、音による没入感の高まりがあります。彼のライブ、映画音楽作品をオーケストラ+バンド編成で演奏される「インセプション」、「インターステラー」、そして「ダークナイト」トリロジーの生演奏を聴いてみたいと思います。

さて、IMAXによる映像体験のお話を書いて来ましたが、一方でスマートフォンで映像を見ることも一般的です。あなたはご自分のスマホを横にして見てますか?それとも、縦のまま?そう、元の映像がフィルム版のIMAXなら画面比率は1.43対1。ほぼ正方形です。既に、正方形の映像を見せるというコンテンツも出てきています。究極の画質で作られたフィルム版IMAXの映像を、画質を適合させた上で、スマホでの縦視聴用に提供したらいかがでしょう。スマホで見る新しい映像体験になるかもしれません。

アメリカの放送局ABCは、マーベルの世界観シリーズの一つ「Inhumans」を全8話のシリーズでテレビドラマ化する、とのことなのですが、なんとこれは全編IMAXカメラで撮影しているらしいのです。IMAXデジタルだと思いますが、既に公開されているトレーラーでもそう謳っています。テレビで放送するのにIMAX!?最初の2話は9月にIMAX作品として劇場公開されるということも発表されています。もしかして、インターネット配信の際は、スマホを縦に持って見る作品になるかもしれませんね。

映画が白黒からカラー、スタンダード、70ミリ、120ミリと進化しました。テレビも白黒、カラー、HD、4K、8Kと進化しました(3Dは進化の脇道かな?)。少なくとも今のところ、フィルム版IMAXが映像の究極の一形態を体験させてくれることは間違いありません。

さて、この秋、「ダンケルク」を70ミリフィルムIMAXで観るために、どこへ旅をしたらいいのか。一思案です。

 

 

バターご飯の憂鬱〜むかし男ありけり

柚木麻子さんの「BUTTER」。読みました?週刊誌の女性編集者が、結婚サギの末、3人の男性を殺害したとされる容疑者を取材するうちに、欲望に忠実なその言動に振り回されていく小説です。濃い話。460ページも分量があるのに、本自体は薄く出来ています。紙が薄いように感じます。僕の指にとっては、とても捲りにくくて、イライラしながら、堪能しました。登場人物の行動が多少、奇矯かなと思うところがありますが、面白い小説です。実際にこのような事件がありましたよね。その犯人とされて収監されている方が、自分とはなんの関係もないと発表して、さらに注目されている本です。

BUTTER

BUTTER

 

 

この「BUTTER」の中で、重要なきっかけとして登場するバターご飯。食べたことありますか?暖かいご飯とバターと醤油だけのシンプルな食べ物。味の素をちょっと振って、なんて書くとさらに懐かしい。バターはエシレとかカルビスではなく、雪印の普通のバターでいいんです。無塩はだめよ。子どもの頃、大好きでした。バターご飯ばっかり食べて亡くなった人がいると脅かされたくらい好きでした。バターって美味しいんですよ。大人になってもバター大好き。

フランス料理界の皇帝こと、ジョエル・ロブションとバターの関係も驚くべきものです。彼の自伝を読むと、青年期の驚愕の習慣にぶち当たります。1日にバターを1ポンド食べていたとは!

ロブション自伝 (中公文庫BIBLIO)

ロブション自伝 (中公文庫BIBLIO)

 

 

濃〜い、美味しいバターって、口の中での溶け具合に、仔牛の胸腺と共通するものがありませんか。生命を食べてるという感じ。ヨーロッパを旅している時、朝食のテーブルに美味しいバターが登場していたら、それをスクランブルエッグに混ぜて食べます。背徳感溢れる喜びを感じます。

子どもの頃の思い出の料理なのですが、北海道札幌市の割烹で食べた馬鈴薯(ジャガイモと書くより雰囲気が出ます。今、思うとメークインだったような。。。)のバター煮。その店の名物でした。大量のバターを溶かしこんだ出汁で馬鈴薯を煮る料理。砂糖(甘さは砂糖だったと思うけど)も入っていたので、グラッセの和食版ですね。そのお店の他の料理は一切、覚えていません。

このバターご飯の関する記述を読んだことがきっかけで、マドレーヌを紅茶に浸した瞬間に人生を思い出すほどではありませんが、子どもの頃の食の思い出が一挙に蘇りました。

子どものころから食べることが大好きでした。裕福な家ではありませんでしたので、小さい喜びが感じられる美味しいものを求めていました。おつかいで猪の肉を買い行った時、子どもながらサシの多いところを選んで買ってきて褒めれられたみたいな、魯山人の幼少期のエピソードのように。そうそう、クジラベーコン、昔のほうが美味しかったと思うのです。

「昔、男ありけり」で始まる平安時代初期に成立したと言われる歌物語『伊勢物語』。古典で習いましたよね。作者なのか、はっきりしないようですが、書中に登場する色男、在原業平(ありわらのなりひら)を「ざいわらぎょうへい」と読んだのもご愛嬌。昭和40年代、50年代、食べ物随筆というか、今なら一種のライフハック?かとも言えるエッセーが、いくつか登場しています。その中で、僕の記憶に残る、そして影響を受けた2冊があります。どちらも著者が男性でしたので、昔、男ありけり、と書き進めたいと思います。

映画評論家の荻昌弘さんが書いた「男のだいどこ」。
荻さんは、映画評論、料理評論、オーディオ評論で知られていました。洋画を放送する番組がテレビにあり、その一つで毎週、解説を担当されていました。この本、今読むと、流石に全体的に古さを感じます(これもKindleで読めるのです。驚き)。でも男のおばさん感が満載で、いいのです。ラーメンのスープやチャーシュー、それからコンビーフ。自家製できることを知りました。

男のだいどこ (文春文庫 172-1)

男のだいどこ (文春文庫 172-1)

 

 

また荻さんは、日本全国のグルメ紹介本の走りとも言うべき本も書いていらっしゃいました。今、手元に本がないので、はっきりしたことは言えないのですが、確か、その本に登場していた神戸の「青辰」さん。穴子寿司の専門店です。美味しかったなぁ。そう、今はありません。阪神大震災の後、店を閉められたようです。父が出張で阪神地域に行くと、買ってきてくれました。この穴子寿司、予約しないと買えないのですが、その予約方法というか、予約を取るために連絡する時間が面白かったことを覚えています。なんでも、朝2時からお仕事をしていらっしゃるので、早朝4時頃から予約の電話受け付けていたのです。いわゆる営業時間である9時以降に電話しても売り切れ。
荻さんの本に、コンビーフの作り方もあったのですが、ついに今に至るまで、試したことがありません。ハムやソーセージなどが大好きな僕にとって、神戸のトアロードにあるデリカテッセンというデリカテッセンで買う(?)、瓶のサンドイッチスプレッドとコールドタンが、子ども時代の最高の土産でした。サンドイッチスプレッドはご飯に乗せて食べてもいいくらい、好きでした。コールドタンなんて、天上の美味。毎度、ほんのちょっぴりだけだったの、いつか好きなだけ食べてやるぞ!と、子ども心に誓ったものです。

毎度、話が逸れますが、あの「美味しんぼ」が始まったのが1983年。僕的には、結果としてトンデモ漫画の範疇に入れてしまって、読むのも止めましたが、当時は若気の至りで山岡士郎に憧れてました。ああ、恥ずかしい。就職試験で、家庭部か文化部の記者になりたいと言って臨んだ新聞社の入社試験。役員面接で「新聞を作っているのは政治部や社会部だ。だいたい君が配属を志望している家庭部や文化部の部長は、この面接にはいない。何を考えているんだ」と叱られた(!)のを思い出します。でも本当に感じていたのです。朧げながら、道があることを。

そんな僕の基礎を“作った”のが、伊丹十三さんの「ヨーロッパ退屈日記」 (1965年)と「女たちよ!」(1968年)です。その頃、僕にとっての世界とは、兼高かおるさんが紹介する旅番組の中にあるものでした。だいたい飛行機に乗ることなんて夢の夢。父が香港に出張するので、羽田空港(当然ですが、今の国際線ターミナルではありませんよ)まで見送りに行ったことを覚えています。それも1970年あたり。当時の羽田空港は今のローカル空港みたいな佇まいでしたよ。浜松町からのモノレールの終点、高架の駅から階段を降りて歩くちょっと寂しいアプローチ。後年、クレージーキャッツの映画「クレージーの怪盗ジバコ」(1967年)を見たとき、あっ、懐かしいと思いました。そんな時代に、ヨーロッパ滞在時の逸話、それもハイライフとも言うべき生活をテーマにしたエッセイが出版されていました。 

ヨーロッパ退屈日記 (新潮文庫)

ヨーロッパ退屈日記 (新潮文庫)

 

 


「ヨーロッパ退屈日記」は伊丹さんのデビュー作。跋文に山口瞳さんが「私は、この本が中学生・高校生に読まれることを希望する。汚れてしまった大人たちではもう遅いのである」と書きました。初版だけは、まだ俳優デビューの際の名前「伊丹一三」名義でした。文筆家松浦弥太郎さんは、伊丹一三名義の初版を持っていると書いていらっしゃいました。いいなぁ。でも中学生のときに読みましたからね。
ミモザ(オレンジジュースとシャンパンのカクテル。今では誰でも知っているカクテルです)、アーティショー(アーティチョークですね。僕が初めて食べたのは1990年代でした)、ジャギャア(イギリスの自動車メーカーJAGUARのことです。ジャガーという発音ではないと書いていらっしゃいました)、正装の意味、ペタンクなどなど。見たこともないもの、聞いたことのないことが洒脱な文章で綴られていました。

先日、愛媛県松山市伊丹十三記念館を訪ねました。雨の伊丹十三記念館は思ったより小ぶりな建物でした。まず、駐車場に屋根付きのガレージがあり、晩年お乗りになっていたベントレーが置いてあります。そして、そこに「ヨーロッパ退屈日記」の中にある「ロータス・エランのために」という一文が飾られています。正月を迎えるために、ずっと掃除していないエランの、埃のうっすらと積もったボンネットに注連縄の絵を描こうとしたが、、、というお話。僕も早く「旅馴れてニタリと笑うドン・ジョバンニ」という域に達したいものです。記念館ならではのお土産コーナーで、伊丹さんが書いた挿絵を元にしたバッジなどをしこたま買い込みました。

女たちよ! (新潮文庫)

女たちよ! (新潮文庫)

 

 

ちなみに毎度余計な話ですが、「むかし男ありけり」(1984年)というタイトルのドキュメンタリーがありました。高倉健さんが作家、檀一雄の生涯、火宅の人としての生涯を追った番組です。その檀さんが書いた「檀流クッキング」(1970年)は、ちょっと言い過ぎかもしれませんが、無頼の人が書いた、無頼の人ならでは料理本。
男の料理なんて言葉もありました。最近では、男性が好き放題、素材や道具におカネをかけて行う道楽のような響きがありますが、昭和40年代は少し違いました。敢えて言うなら、男だけど、好き嫌いをはっきり言うよ、という意思表明が初めて為された時代だったのではないでしょうか。
伊丹さんの「ヨーロッパ退屈日記」は、料理やファッションなどに関して「徹底した好き嫌いが貫通されていた(松岡正剛:千夜千冊0682夜)」本でした。最近読んだブログ記事に、成功するブログは好き嫌いをはっきり書いてあるとありました。僕もひとつ、希望を述べさせていただきます。バターご飯、最高です。食べた後の健康データを考えると憂鬱になりますが、また流行ってもらいたいものです。

永遠の夏への扉はどこに〜ホームスピーカーがAIを供にやってくる

毎週日曜日、午後2時、FM東京の「山下達郎のサンデー・ソングブック」を聴くのが日課になっています。もっとも、生では結構聞き逃すことが多くて、radikoのタイムフリーを使わせてもらっています。便利。

6月18日放送回の1曲目は僕にとっては感涙の1曲、「夏への扉」。それもライブで、キーボード難波弘之さん、ベース伊藤広規さんというメンバーでの演奏。さらに、2番を難波弘之さんが歌っているという超ベストパフォーマンス。この曲、放送でも山下さんが言っていましたが、SFファンでプログレファンのキーボード奏者、難波弘之さんの1979年のソロ・アルバム「センス・オブ・ワンダー」への書き下ろし。難波弘之さんは高校時代からの憧れのキーボーディスト。彼の処女作、「飛行船の上のシンセサイザー弾き」も2冊、文化出版局版と早川書房ハヤカワ文庫版、持ってます。「SFマガジン」の連載、「キーボードマガジン」の連載、どちらも読ませていただきました。そしてNHK教育テレビの「ベストサウンド」は必ず録画(VHSで!)して見ていました。

夏への扉」は、アメリカのSF作家ロバート・A・ハインラインが1956年に発表したタイムトラベルをテーマにした小説「The Door Into Summer」をモチーフにした曲です。この小説は、未来からの過去の改変、タイムトラベルの結果による過去からの未来の改変について、考察しています。このテーマで思い出すのは、1965年に発表された広瀬正の「マイナス・ゼロ」も過去の改変がテーマ。僕が若い頃でも、あまり手に入らない本でしたが、集英社文庫広瀬正小説全集で揃えました。それが、今やKindle版で買えるなんて、素敵な時代。SFはサイエンス・フィクションの略だけではなく、スペキュレイティブ・フィクションでもあるという議論が懐かしい。

 

夏への扉 (ハヤカワ文庫SF)

夏への扉 (ハヤカワ文庫SF)

 

 

 

毎度毎度の長い前振りですが、ラジオを聞きながら何かをするという行為。デジタルラジオになってから、40年前の習慣が戻って来ているのが驚きです。電車の中で、デジタルラジオ(それも聞き逃し!)でお気に入りの番組を聞きながら、デジタルブックで週刊誌を読む。これが習慣になっています。デジタルラジオになって、再確認したことは「ながら族」という死語は、実はまだ生きているということ。僕が若い頃、ラジオやレコードを聞ききながら勉強や仕事をする人を呼んでいた言葉ですが、スマートフォン時代になって、それを支える新しいサービスが登場し、新たな「ながら族」の仕様が出来上がったと言ってもいいでしょう。そして、この新「ながら族」はデジタルコンテンツの覇権争いに大きな意味を持ちます。

車を運転する時を考えてください。車を運転する作業だけで一杯一杯になっているドライバーは危なくってしょうがない。慣れているドライバーは、運転行為が無意識の中に組み込まれているというか、考えなくても、体が先に動くようになっていますよね。運転が専一になっていなっていうこと。ラジオを聴きながら、同乗者いれば会話しながら運転するのは当たり前。

アマゾンのサービスでAudibleというのがあります。本を読んでくれるサービスとでもいうのでしょうか。本を音声の朗読として買うわけです。また、たまにアメリカのアマゾンで書籍を買う場合に、CDという選択肢があって、面食らいます。運転しながら再生するみたいな使い方。日本人には慣れがない、本の読み方です。Audibleは、その派生系ですね。

昔の日本のラジオには、朗読の時間というのが結構あって、かの有名なNHKアナウンサー鈴木健二さんの時代小説の朗読なんて、最高でした。(今でもNHKラジオ深夜便では、朗読の時間があるようです。)

耳から入る情報は、何かをしていても、流れの中に棹差すようにしっかり刺さります。そしてこれからは、何かをしている時に、声が割り込むようになります。

テレビとスマートフォンのスクリーンを見る時間の取り合いと言われてきましたが、実は見る方にとっては、ほとんどの時間は「ながら見」なので、実はタイムシェアリングの問題。そしてコンテンツの質の問題です。電波で送られてくるテレビを見なくなっても、その他の映像コンテンツはむしろ、視聴時間が増えている。そんな時、何かを見ている時は、声をかけるしかないでしょう。

ちなみにデジタルラジオはラジオの復権と言っている方もいますが、それはやや見当違い。情報の上乗せは音声が一番、生理的な解決方法であるということが、改めてわかったということでしょう。テレビを見ている時にも、何かが音声で割り込んできたら、どうでしょう。たとえば、長時間の歌番組。ちょっと浮気して裏番組を見ている時、もともと見ていた番組に自分のお気に入りの出演者が登場することを教えてくれたら?

ちょっと逸れますが、耳にイヤフォンが入っているのは、いろいろな感覚が奪われているように感じます。人が近くに寄って来てもわからない。または、どの方向から近づいて来るのかわからない。距離感が鈍るというのでしょうか。だから、オープンエアーの状態で音声が来るのがいい。

テレビドラマを見ていると、いろいろ考えさせられます。TBS系日曜劇場枠「小さな巨人」、ちょうど最終回でした。怒鳴り合い、顔を変形させる闘いの最終回でもありました。香川照之さんがあの顔で「捜査第一課長、小野田義信の目を見て言え!昆虫が好きだと!」と言いそうでドキドキしました。サラリーマンにとって、重い言葉がたくさん登場していました。「辞めない覚悟もある」、「敵は味方のふりをする」などなど、身に染みました。でに画面に集中した後、コマーシャルに入って、ふと息を抜いて、何かを考えては、iPhoneで調べる、メモする。そんなテレビの見方。製作者には申し訳ないのですが、そんなテレビの見方は、既に普通の行為です。これからは、テレビを見ながら、ホームスピーカーに呼びかける。そして、次の時代は、ホームスピーカーが音声で、何かを知らせてくれる。

【早期購入特典あり】小さな巨人 DVD-BOX(オリジナル 3色フリクションボールペン付)
 

 

アマゾンのAlexa(Echo)、グーグルのGoogle Home、LINEのWAVE(Clova)、そしてAppleのHome Pod。日本語対応は、どうやら今年の年末12月から春先までに、LINEを除く各社のタイミングがやって来そうですから、揃い踏みのタイミングは2018年の春でしょう。戦闘開始。

前述の「夏への扉」は、1956年から見た未来、1970年がスタート点です。そこにはHired Girlという家事ロボットが一般的に使われている時代になっています。翻訳したS-Fマガジン初代編集長福島正実さんも苦労されたのでしょう。文化女中器という訳になっています。(新訳ではどのようになっているのか未確認です。)ルンバではありませんが、掃除を含めた家事一般をこなしてくれるロボットが1970年の世界では、当たり前になっています。そして、主人公が冷凍睡眠(コールド・スリープ)の末に目覚める2000年には、さらに便利になった万能フランク(Flexible Frank)というロボットが存在しているという設定でした。2017年の今、AIホームスピーカーは、Hired Girl、そしてFlexible Frankを超える存在になれるのでしょうか。

永遠の夏への憧れは尽きません。さて、夏が来ます。今年の夏は暑いのでしょうか。