これって本当?〜監視社会は安心社会

Facebookユーザーデータが政治&選挙データ分析会社Cambridge Analyticaによって不正利用されていたというニュース。イギリスのEU離脱投票やアメリカの大統領選挙結果に影響を与えていた疑いが大きくなってきています。日本では情報流出とか言っている人がいますが、流出ではありません。強いて言うなら、不正流用が正しい。毎度、適当な記事が多い多い。

インターネットサイトのトップページに何故、星占いや誕生日占いがあるのでしょう。また簡単なクイズやアンケートもそうです。サイト運営者の目論見は、利用者のプロファイル=属性の把握にあります。つまり個人情報の入力をさせずに、男性か女性か、何歳(ぐらい)か、何が好きかなどを、大まかに把握することが目的です。
インターネット初期からつい最近まで、その程度のユーザー情報しか集められませんでした。個人情報ではない、統計的なデータなのに、パソコンやスマホで「あなたがお使いのサイトの利用データを採らせてください、個人はわからないようになっています。」とアナウンスしても、なかなかイエスと言ってもらえなかった時代が長かったのです。
余談ですが、P2Pがあれほど嫌われた理由の一つに、ノードになることは他人に土足で自分の敷地に踏み込まれるように感じたからでしょうかね。Bitcoinを支える中核技術、ブロックチェーンの基本的な仕組みはP2Pです。名前が変われば、ですかね。


個人情報提供許諾のハードルは高かった。その時代を知っている者とすれば、インターネット接続テレビ(スマートテレビ)の視聴ログの提供にOKと言っている世帯が2017年11月時点で48万を超えているというニュースは、なかなか驚くべきニュースです。いつの間にか、スマートテレビの視聴ログがこんなに集まっているなんて、驚きです。ログ提供に関する抵抗感が下がっているのでしょうか。現時点では、まだ世帯に偏りがあるそうですが、やがて視聴率を凌駕するデータになるかもしれません。ビデオリサーチのデータは関東でも900世帯ですから。

Facebookの話、68項目への「いいね」のビッグデータから85%の確率で支持政党を当てられる高精度のモデルを持っていたCambridge Analytica。簡単なアンケートが実は、選挙の行方を左右するデータの取集方法につながっていたのです。Facebookは無料で便利な仕組。でもそれは、利用者のデータを高額で売っているからこと成立しているのです。では、ユーザーデータを利用されることは、そんなに脅威なのでしょうか。

妙な例を思いつきました。日本で銃を持つには、猟銃所持許可を取るしかありません。でも、そのハードルがとても高いのです。筆記試験だけではなく、警察での面接、警察による近所での聞き込み、そして精神病や麻薬・アルコール中毒者でないことを証明する診断書などなど、何度も行われるスクリーニングと束のような必要書類への耐性が必須です。あなたが“ちゃんとした”市民だという証明が必要なのです。そんな手続きの果てに、やっと銃の所有が認められる。警察は、どこの誰の家にどんな銃があるか把握している。そこにある弾の数も把握している。だから銃の乱射事件はまず起きない。でも健康データも含む個人情報と引き換えです。

AmazonクラウドサービスAWSの年次大会が毎年11月に行われます。昨年の大会で、密かに耳目を集めた発表がありました。CIA=アメリカ中央情報局が、オンプレミスではなく、全てのデータを2020年までにAWSに置くという計画を発表したのです。理由は、彼らが取り扱う情報の量が、爆発的に増加の一途をたどっているから。そう、その情報とは映像や音声、そしてSNSデータのことでしょう。さまざまな方法で(違法に?合法的に?)得られた個人情報がクラウドに置いてある。なんかちょっと変な感じ。

海の向こうのフェイスブック不使用運動を見ている日本の皆さん、大好きなLINEの親会社が韓国企業でデータが筒抜けになっている可能性があるなんて気にしていたことなんて、もう忘れてるでしょう。

中国がモバイル決済大国であり、その勢いから世界標準になるのではないかと言う人がいます。でも、もともと、銀行システムなどの金融インフレが整わず、小売商の多くが現金決済を好み、クレジットカードが普及していなかったことなどの「中国に固有の構造的な要素」による結果です。それはまた、テンセントのWeChatとアリババのAlipay以外に決済の選択肢が無いという独特の構造も同様であり、決済の選択肢がこの2つに限られるということが、そのまま日本に持ち込まれるわけではないでしょう。また、スウェーデンでは、ほぼ完璧に近いキャッシュレス化が実現されているという例もよく引き合いに出されますが、これも同じ。その国固有の構造的な要素が理由だということを全く無視して、日本が遅れていると言われたって。そもそも、電子決済を進める前提には、誰かが個人情報を一括管理しないとならないのですよ。

中国では、政府のビッグデータの国家規模での事業インフラ化が進んでいることから、それを称してデジタルレーニン主義という言葉で表現されています。この流れの一つに、人々のスコア化があります。アリババが手掛ける「芝麻信用」という、ビッグデータから各人の信用度を数字で算出するサービスです。このサービスは中国が徹底した監視社会であり、政府が個人情報を一元管理してきたことと結び付いています。最近、中国のケンタッキーでは顔認証で商品購入出来るようになる実験を開始した、日本でも云々という記事がありました。これは、全国民の顔認証のデータベースがある国ならではの話です。フライドチキンを簡単に買うことが出来るようになるからって、顔認証データベースが日本で出来るわけないでしょう。デジタルレーニン主義が前提です。話の順番が違うことに気づいてない。

僕の友人のお父上。ある要職にお付きの方ですが、その方が中国へお仕事で行かれた時のこと。とても偉い方なので、昼は視察と会議、夜は宴席という日程が続き、多少体調を悪くして、ある夜、宿泊されていたホテルで、思わず具合が悪くなったそうです。大したことはなかったのですが、彼が驚いたのは、その直後にドアがノックされ、ホテルの従業員が様子を見に来たことです。

そう監視と安全は紙一重です。近い将来、ビッグブラザーの元、サイバーダイン社のスカイネットに全ての個人情報が管理されるようになっても、ビッグブラザーが“いい人”だったら、安全な社会になってよかったいいじゃないか、になりませんかね。
ちなみに、我が日本の政府は、マイナンバーシステムの不甲斐なさからすると、本気度が足りないというか、わかっていないというか、まだまだビッグブラザー度が低過ぎ。

 

 

一九八四年[新訳版] (ハヤカワepi文庫)

一九八四年[新訳版] (ハヤカワepi文庫)

 

 

だいたい一般人のあなたや僕のデータなんて、ビッグデータの一部だという以外に、何の価値もありません。皆さんが、Facebookを使わないのは何とか出来るにしても、LINEを使わないなんて、無理でしょう。僕は使ってないけど。
最近、「キャッシュレス化が進む世界から周回遅れ」と題して、日本では電子マネー決済市場が停滞しているとか、キャッシュレス化が進まないなどと書いている記事が増えています。そのベースとなる個人情報をどのように扱うのか、その議論も無しでは進められないのに。経済評論家という人々には、「富裕層では」「海外では」と書く、出羽守(でわのかみ)が相変わらず多いようです。

これって本当?〜小さいことはいいことだ

大きい牛乳パックは1リットルだと思っていたら、最近は900mlしか入っていないんですって。80g程度のポテトチップは60gになったり、6個入りが5個入りになったり、いろんなものが小さくなっているそうです。一人暮らしが増え、少量の商品が求められていることがあるかもしれませんが、値段はほとんど変わらないという、実質の値上げ。
最近はファミレスに行って食べ慣れたメニューを頼むと、なんだかこじんまりしている感じがします。お皿の大きさは変わらないけど、載っている料理が、お肉が小さくなってる感じ。値段は変わらない。
これって、牛丼屋さんやハンバーガーチェーンの値下げ競争が各社の経営体力低下を招き、結果として起きた経営不振につながったことを思いだします。サイズは大事ですよね。同じサイズを維持することは信頼感です。体重もそうですよね⁈

ニューヨークを拠点とするデザイナー、トム・ブラウン。彼の名前を冠したファッションブランドは、2001年に5着のスーツからスタートしました。2007年から2015年まで存在していたブルックス・プラザーズとのコラボライン、ブラックシープ。好きでした。また2013年のオバマ大統領就任式では、ファーストレディのミシェル・オバマさんがトム・ブラウンのドレスを着用したことでも知られています。このトム・ブラウンがコラボしているのが、日本のkoeという洋服屋さん。

ある日、トム・ブラウンの服が、おやっという値段で売られていることを知りました。Earth Music & Ecologyという、遅れてきたアクエリアス革命じみた趣味の悪い名前のブランドなどを運営する会社クロスカンパニーが、2009年にトムブラウン・ニューヨークに出資したことで始まったコラボレーションです。トム・ブラウンですよ。ツンツルテンパンツのアイビーリーグスタイル。毎シーズンのブレザーは最高、でも超高価。欲しいけど、まず買わない。
まさにトムらしい服が、値段1/5以下。ついつい、2シーズン続けて、いろいろ買ってしまいましたよ。でもね、でもね、なんだか窮屈な小さい服なのです。サイズ感としては、例えば普通のLサイズのジャケットが、3/4くらいのサイズ感なの。パンツなんて、一番大きいサイズを買ったのに、腿までしか上がらない。いくら小太りだからって、自分のサイズくらいわかってます。そして、素材が悪い。ウール系はゴワゴワ。なんだかなぁと思っているのは、僕だけだと思っていたら、そうではありませんでした。
今月、渋谷に新しいホテルができました。パルコパート2の跡地。そこがHotel koe Toyoという名の、ブティックと一体となったホテル。おや、サイトを見たら、このホテルだけ「koe」の表記が「koé」とアクサンが付いてることに気づいた。なぜ、突然フランス語表記?インチキ臭いなぁ。ここを訪れた記事が某ファッション誌にありました。トムの服があることに気づき、試してみたら、おじさん体型の記者さんが着ることができない窮屈な服だったって。おかしいと思っているのは、僕くらいかと思っていたら、そうじゃなかった。安心。ケチな商売。騙された自分が悪いけど、もう買わない。トム・ブラウンも名前が汚れるのでは。

昔、「噂の真相」を愛して止まなかった僕が、昨今、愛読させていただいている会員制情報誌「FACTA」。4月号の記事『JR東海「リニア」が中国漏洩』。電磁カタパルトの技術が中国に漏れたのではないかという記事です。この記事にもありますが、最近、ネット記事で、中国空母の二番艦に電磁カタパルトを搭載する予定という内容を読みました。また原理は異なりますが電磁レールガンの搭載実験も始まったという記事もありました。今、世界でとてもホットな技術の話題、マグレブ

JR東海「リニア」が中国漏洩 https://facta.co.jp/article/201804002.html

リニアが国策になったのは、電磁カタパルト技術への転用が期待されているからではないかという邪推を、以前にも書かせていただきました。だから総額9兆円と言われる建設費にもかかわらず、やることになったのだと。最後のご奉公だとおっしゃっているJR東海代表取締役名誉会長さん(4月1日付で代表権は無くなるようですが)のパワーの大きさ故のことでしょう。

記事中にこんな記述がありました。9割がトンネルになっているということは、事故が起きたら乗客全滅で、トンネルは修復不可能で掘り直し、さらに現状では連結が難しく、せいぜい80人乗りで、1分おきに連射しても採算は取れない、と。リニアは新幹線と同じ16両編成で、経済効果などの計算が行われていたと思うのですが。この通りだとすれば、とりあえずの実現のために、開業当初はサイズを小さく、ということなのでしょうか。でもこれは騙し撃ちのダウンサイジングなのでは。

働き方改革で、産み出しているものは変えないで、働く量だけを減らす(=総労働量のダウンサイジング)って、そんなことできるわけないでしょう。どこかにしわ寄せが行くに決まってます。会社の上司を忖度する中間管理職が多い会社では、おそらく派遣や委託、外部業者の皆さんにしわ寄せが行くことが予想できます。上司の意向を忖度し、本体職員を休ませることを考えて、その分、外に振り向ける。
そうそう、昔、九州出身の暴れん坊NHK会長さんを巡って、NHKの役員会見で、当時の専務が会長さんの意向を忖度しているか問われました。その専務さん、逆に、「皆さん、サラリーマンでしょう。上司の意向を忖度しないんですか?」と質問していたことを思い出しました。(ちなみに、その会長さんは専務さんのことを“忖度の名人”と呼んでいたとか:噂)サラリーマンとは「私、ちゃんと上司の意向を忖度しています」って言うものでしょうか。だいたい、その話題になっていた暴れん坊会長さんは、JR東海からいらっしゃった会長さんを追い出して就任した方。そのJR東海からいらっしゃった会長さんは、安倍首相の後見人を自負するJR東海代表取締役名誉会長さんが、送り込んだ腹心。でも、その方が公共放送の理念に目覚められて、政府広報ではいけないということに気づかれたら、あっという間に内堀まで埋められて、追い出されるようになってしまったという顛末でした。

大きい方は、自分より大きい方を好まないので、どうしても自分より小さい方を選ぶ傾向にあるかと。ご自分のサイズに酔ってしまうのでしょう。
でも、上に立つ方のダウンサイジングが、下にいるものの一番困ることですから。サイズ維持は信頼、です。どんな場合でも。

これって本当?〜後の祭にご用心

ネット民という言葉は、従来のメディア、特にテレビや新聞という、通称オールドメディアの対極にいる人たちを表す言葉のように思っていましたが、本当にそうなんでしょうか。
 

前々から、これって本当?と思っていた記事を見ました。7年前、東日本大震災が起こった日である3月11日の新聞テレビ欄(通称:ラテ欄)を見た人がツイッターに書き込んだのがきっかけのようです。NHKの午前11時の番組欄の番組説明文の一番左の行をタテに読むと、「あの日をわすれないよ」または「東北が大好き!』と読めることに、感銘したという声がネット上、またはツイッター上にあふれているという内容でした。

ー「あの日をわすれないよ」3月11日、NHKのTV欄「タテ読み」に反響 #ldnews http://news.livedoor.com/article/detail/14417729/

この記事の一番引っかかるところは、新聞のテレビ欄とネット上で反響という、もしかしたら最も距離が遠いと思われるようなヒトモノの邂逅が本当にあるのかしらという点です。だって、新聞のテレビ欄を見るネット民って、昨今語られているテレビを見ないネット民、新聞を読まないネット民という像から乖離している姿です。何のために新聞のラテ欄を見るの?感涙したのは、どんな年齢層?男?女?オールドメディアに触れるネット民?今まで認知されていなかった新しいプロファイルではないかと思います。この層に向けたターゲティング広告の有効性を検討すべきです(!?)
(まぁ、昨今の2ちゃんねるの没落ぶりを見ながら、「ネット民」というのも死語に近いのかなとも思いますが。)

YouTuberに憧れ、「フリースタイルダンジョン」を毎週欠かさず録画して見ている厨二の豚児が、小学校高学年の時、突然、「スゲえ便利なモノがある」ことを知ったと言っていたので、それは何かと訊ねたら、「新聞の一番最後の頁に、今日はどんなテレビ(番組)をやってるかわかる表がある!」だって。でも彼は今、全く新聞を見ません。読みません、じゃありません。見ません。僕も新聞を取っていますが、まず読まない。デジタル版は読むけど。そう、ふとした時に、デジタル版にラテ欄が無いので、不便だなと思います。 

フリースタイルダンジョン ORIGINAL SOUND TRACK VOL.2

フリースタイルダンジョン ORIGINAL SOUND TRACK VOL.2

 

 

この「ラテ欄縦読みに感銘。ネット上で話題」という趣旨の記事、たまに出るのですが、これって意味あるのかなぁ。ラテ欄は、使える文字や記号に制限があり、書き込みには慣れが必要です。縦読みを成立させるように書くのは、一種の職人技です。でも編成マンと言われる人たちの自己満足だとは言わないけど、どちらかと言うと、そこに力を入れるより、EPGをもっと充実させて欲しいなぁ。今だに、ちゃんとした内容を入れてない番組があるからね。年に何度かのラテ欄縦読みの工夫が、NHK(の受信料)にとって、得になるのか。朝、新聞を読まない人が多い中で、縦読みによって視聴者が増えることは残念ながら、無いでしょう。どうなんだろう。
しかし、それにも増して、新聞ってどうなっていくんでしょうか。朝の通勤電車で新聞を読んでいる人の姿、めっきり見なくなりましたよね。僕にとって謎のジャンルの印刷物、スポーツ新聞もしかり。もちろんまだまだ新聞の記事に威力はあります。新聞記者たちのスキルは馬鹿にできません。でも電車内のほとんどの人の手にあるのはスマホ
 

スマホは人から間(ま)を奪うとか、ゲームばかりに熱中してバカになる(超、大雑把な意見)とか、言う方がいますが、そうとも言えないでしょう。本や新聞が売れなくなった原因、または印刷された新聞や本を読まなくなった原因がスマホの普及だけではないはずです。知ること、知識を持つこと、またその努力をすることが軽視されるようになったことが問題なのです。
僕にとってのスマートフォンは、何かについて疑問を持った時にすぐに調べることができる便利な道具、辞書や百科事典の代わりであり、本でもあります。
Kindleなどの電子図書として本を携帯することが可能になったのは、大変にありがたいことです。荷物も軽くなるし、読後に家のスペースを圧迫することも無い。
なにせ国土の狭い日本です。そこに、これだけ多くの人が暮らしていると、自ずと一人当たりが使える面積、容積が限られてきます。満員電車はその例の一つです。狭い電車内で、より有効に時間を使うための道具としてのスマホはかなりの価値があります。
本に限れば、図書館で用が足りるという人もいるかとは思いますが、これだけ本が売れない時代に、図書館の役割、置くべき本についても意見があります。例えば、発売直後の文庫本は置かないで欲しい、買って欲しいという、痛切な願いが出版社、著者たちの中にあります。社会の中の共有サービスの概念も変わりつつあるのです。
世の中には、お金がかからないようにすることが何か問題があるのか、という人もいます。どちらかと言うと、増えてますよね、こういう人。でも、知的生産物ですよ、本は。こういう人は、漫画週刊誌などを発売と同時に無料、勝手公開しているサイトはお金のない青少年のために有用だと言っちゃたりする人です。対価は必要なのです。自分の都合で、対価を無視する人は、それを使わない(=読まない)でよろしいかと思いますが、いかがでしょうか。対価を無視してコンテンツを使うことは、盗むことと同じです。

そう、対価も無く「ネット上で話題」になったりすると、得したような気持ちになりますが、「ネット上で話題」になり、売上やなんらかの成果に結びつくのは、タイミングが肝要です。実は一番、買って欲しい、見て欲しい時に、接触してもらえないことが多いからです。事後、そう、後の祭り。
毎度乱暴な意見ですが、ラテ欄縦読みに感銘する人は実はそのコンテンツ(この場合は番組)に接触しない人で、ネット時代ならでは「後の祭(り)」層(筆者の造語ですよ)なのではないでしょうか。多いんだな、この層は。
「後の祭(り)」という言葉を辞書で調べると、「時機遅れで、無駄なこと。手遅れ。」とあります。1952年発売の美空ひばりさんの「お祭りマンボ」(作詞・作曲・原六朗)の歌詞とメロディ、沁みます。
後の祭りに一喜一憂するのはやめましょう。

 

これって本当?〜ダメな時代として記憶される平成

東日本大震災から7年。まだサラリーマンだった2011年3月11日。その日以降の二度と経験したくない日々を思い出しました。また最近はちょうど、平成の終わりという時代の切れ目が近くなったこともあり、平成を総括する動きが出てきています。そんな、平成をテーマにしたり、今の日本について書かれたブログや最近読んだ本からの連想と、その中の共感した言葉、共感出来なかった言葉を書かせていただきます。

フランス現代思想が専門の哲学者・内田樹先生が、平成の30年を総括する寄稿依頼を元に書かれた文章です。実は、正直まったく共感できない内容でした。『1989年からの30年間は日本にとって「落ち目」の日々だった』って、そんな時代に生まれたり、働き出したりした人はどうしたらいいのでしょうか。

ー平成が終わる(2) (内田樹の研究室)http://blog.tatsuru.com/2018/03/07_0637.php

(前略)1970年代まで現役だった戦中派ビジネスマンたちには「アメリカと経済戦争をしている」という自覚は無意識に共有されていたはずである。この対米ルサンチマンは、バブル期に広く人口に膾炙した「日本の地価の合計でアメリカが二つ買える」という言葉にもはっきりと反響していた。

とされているのですが、「1970年代まで現役だった戦中派ビジネスマン」の自覚がなぜバブル期、つまり1980年代半ばに(当時のビジネスマンに)どうやって反響したのでしょうか。そして、次のようにも書いていらっしゃいます。

バブルの崩壊は日本人にさまざまな傷を残したけれど、誰も口にしない最も深い傷は「国家主権を金で買い戻す」という一場の夢がかき消えた失望がもたらしたものだったと私は思う。

誰がそんなことを考えていたのでしょうか。そういう人がいたかもしれないことは誰も否定できないと思いますが。でも太平洋戦争だって、アメリカと日本の国力と冷静に比較して、その差を考えていない人たちが国をリードしたから、勝てない戦争に深入りしていったのですよね。ハッキリ言って、そんな浅知恵の人たち再び、ということなのでしょうか。社会の中で物事を決める立場の人たちが、そんな程度だったら、やっぱり負けますよね。妄想に生きる人は現実を把握してないでしょう。

日本が「落ち目」になったのは個人の努力と国力の向上を結びつける回路が失われてしまったからである。

これを国民全員の合意として、なぜそうなったのか、回復できるのか、「自由闊達議論』(この言葉の意味がよくわからないんです。)が始まらないと、「この転落に歯止めはない。」とのことですが、これはどういう意味なのでしょう。現実的にどうやったらいいのか、誰にもわかるよう説明して欲しいものです。

山口組系の組長さんで、経済系のフロントをお勤めだった方で、現在、経済に関する評論をお書きの猫組長さんという方がいらっしゃいます。週間SPAの連載は毎週必ず、最初に読ませていただいています。ちょうど最近、「アンダー・プロトコル 政財暴一体で600億円稼いだ男の錬金哲学」が出版されました。いろいろ、共感できる本でした。

もう一冊、バブルの頃を描いた記述がある本。僕はリクルートと全く関係ないのですが、いわゆる「江副本」が出ると、必ず買ってしまうのです。

江副浩正

江副浩正

 

体裁も含めて、面白い本です。でも、少なくとも僕には、江副さんが『「国家主権を金で買い戻す」という一場の夢』を見ていたようには思えませんでした。

 

そこで今度はこのブログです。とても共感できたのです。投資家の山本一郎さんのブログ、文春オンラインの3月8日の記事です。

ー若者には、いまの年寄りの人生アドバイスが役に立たない理由 #山本一郎 http://bunshun.jp/articles/-/6462

全く、仰る通りです。

「むしろ、経済が縮小していく中で、何よりも人が大事だという社会になっていくプロセスにあるなか、若い人に我慢をしなさいというアドバイスをすること自体がどれほどの意味を持つのか、よく考えるべきだと思うんですよね。」

『実利の見えない、あやふやに「頑張れば、いつかは報われる」というアドバイスは、若い人たちにとって役に立たないばかりか、貴重な若い時分を捨てさせる有害無益なものになってしまっている』

そしてさらに、東洋経済オンラインの3月9日の以下の記事につながりました。

ー高品質・低価格という「犯罪」が日本を滅ぼす アトキンソン氏「労働者の地獄を放置するな」 | 国内経済 - 東洋経済オンライン http://toyokeizai.net/articles/-/211297

僕も揚げ足取りのような事を書いていますが、やっぱり「失われた20年」は、みんなが互いに揚げ足とりをしながら来た20年であり、絶対悪と絶対善があると信じ込んで、それ以外を許さないとしてきた、狭量で不寛容な時代だったと思います。


夏になると、1985年に起きた日本航空123便の墜落事故の真相と称する本が今でもたくさん出版されます。その中に決まってあるのが、「NHKが本当の墜落場所を隠して報道したので救助が遅れた。何かを隠したい政府に協力したのだ」という類の、NHK悪の組織論です。実際は、123便が消息を立ったという情報が入った直後から、複数のクルーが東京を発ち、現地で情報収集しながら、墜落場所を探していたのですが、なかなかたどり着けなかったのです。

東日本大震災の時も、大津波が陸地を駆け上ってくる様を捉えた、あの衝撃的かつ世界で初めての映像をヘリコプターから中継できたのは、地震発生を前もって知っていたからだという説を唱えていた人が結構いました。

でもNHKの内部を知っている人からすれば、報道の現場は、それこそアルバイトの学生から始まって大勢の人間が関わっているので、万が一、上層部が密室で「この方向に報道すべし」なんて決めて大号令を発しても、それを現場に強いることは難しいということが分かっています。もしそんなことが実際に起きていたら、そのことについて、20年以上、たくさんの人間が黙っているなんてことは出来ないでしょう。
だから、情報統制をするような特殊法人はいらない、だいたい給料が高過ぎ(ちょっと人が多すぎなので、実際に大して仕事してない人も結構いると思いますが)だとか、問題(=犯罪)を犯す職員の率が他の企業より高いなどの根拠の無い中傷などによって、さらに嫌われ、いじめられると、組織が萎縮してしまいます。そして「挑戦」より「管理」が優先される組織になってしまうという、悪循環に入ってしまっています。社会的なイジメは、やっぱり会社に働く人たちの力を削ぎます。

ここで、その通り!と思ったのが、この本を紹介する記事。今のNHKはどこまで当てはまるのでしょうか。

生きている会社、死んでいる会社

生きている会社、死んでいる会社

 

 

過去の分析から、未来を考えることはとても大事なことです。でも、その分析の結果が、今を生きる人たちにとって、どうしようもできないことだけが導き出されていても、全く意味を持ちません。
ただ日本すごいだけを言われるのも困るのですが、読んだ若い人に何をさせたいのだろう。日本がダメだと冷静に分析して、どうするのだろう?解決策の提示は?日本を捨てて、どこか他の国で生きることを示唆してるのかなぁ。

※今回は引用が多く、長い文になってしまい恐縮です。(しかし、東洋経済オンラインさんって、玉石混交凄し、ですね。)また、この引用は、引用元の書き手の皆様の本意を必ずしも正確に受け取っていない可能性もあります。引用からの文脈解説は筆者の意見です。文責はこのブログの筆者にあります。

これって本当?〜どんなものにも芸風を

アメリカのボストンからの帰り道、ファーストクラスに乗りました。初めてのFクラス搭乗で、少々盛り上がりました。もっとも、ここでファーストクラス搭乗記を書くわけではありません。

機内で「オリエント急行殺人事件」を観ました。ケネス・ブラナー版ですね。かっこいいポワロ。トルコ・イスタンブールからフランス・カレーまでの豪華絢爛な列車の旅。眠る時の格好(パジャマかな)、その上に羽織るガウン。食事時のための正装。何種類も服を持っていかなくてはならない。舞台になっているのは一等車ですからね。
これだけ有名な作品ですが、原作を読んだことは無い上に、1974 年公開のシドニー・ルメット版も観ていない。結末を知らなかったので、かなり楽しめました。

なにせ復路だけでも13時間近く。結局、往復で5本も映画を堪能しました。昔の三本立ての二番館みたい。でもそう考えると、もっとサービスがいい。フルコースの食事(食べながら寝てもいい。まるでローマ時代の食事ですね!?)と飲み物付き。それもクリュッグ
サービスと言えば、ボックスのようになった席には、機内用のパジャマが置いてあります。(ちなみに、ご存知だと思いますが、レンタルではありません。専用。)でも着替えませんでした。これは習慣。僕は、とても心配性なので、離陸着陸時には必ず靴を履いています。そして、ビジネスクラスでも絶対に着のみ着たまま。だって、万が一の時、パジャマでは逃げられないでしょう。 

 

ちょっと前ですが、ロボットが服を着たらどうなるのか、についてリポートした記事がNHKのサイトにありました。
NHK NEWS WEB 「裸」だったロボット 服を着せたなら…| https://www3.nhk.or.jp/news/web_tokushu/2018_0220.html
NHKの記事はすぐに消えますのでご注意。)
お店に立っているロボットのペッパーくんに服を着せると、接客に「より活躍する」というデータがあるようです。これは所謂、不気味の谷問題の派生というか応用問題なのでしょうか。
こんな話があります。日本の実写特撮ヒーローものをアメリカに輸出した際、そのヒット度合いに明確な差が出たのが、仮面ライダー系とウルトラマン系だとのこと。仮面ライダーは服を着ている(ベルトをしているのに裸だったら、単なる変質者ですね)が、ウルトラマンは裸なのか、わからない。だからアメリカではヒットしなかったと言われています。まあ、ウルトラマン系はアニメになって、そこそこヒットしたようなので、どうやら肌というか表皮というか、その質感に起因するのかなとも思います。

NHKの記事には、服を着ることによって社会的な役割を担うようになる、とありました。日本では一般的に、目立たない普通と言われる服を着ているほうがよいとされているように思うのですが、それは目立たないスーツ(高価過ぎずに、ね)や制服を着ることで、社会(の一階層)に溶け込む、ということ?だいたい、この場合、服とは、なんなんでしょう。割と個性的と言われるカッコで歩いている僕は、結構な割合で、同年代の男性(=おじさん)から不審者を見るような眼差しでジロジロ見られることが多いのですが。

ボストン滞在中にピョンチャン五輪の閉会式がありました。時差を確認すると、現地時間=日本時間の夜8時からのライブ。ということはボストン時間朝5時。帰国準備もあったので、目覚めました。アメリカでオリンピックを放送するのはNBCです。

NBCは超高額の放送権料を支払っています。開会式と女子フィギュア決勝の開始時間をアメリカ東部時間の視聴者に合わせてもらえるほどの金額です。閉会式はどうなっているのかと思って、テレビを着けたら、おかしな事にやってない。NBCのサイトを調べたら、なんとアプリとサイトでライブをやっているものの、テレビでは夜8時から放送だけ。強気でした、NBCは。インターネットである程度安定的なライブを届けるられるようになった時代に合わせた編成は、まだまだ出来ない日本です。慧眼の知己の言葉ですが、「日本のテレビ業界は憧れの同時再送信が出来るようになったら、その先のことを考えてなかった」。今や意外と大量のお金が流れ込んできているネットテレビの世界には、ルール無用を売り物にして先行者たちがいます。今のところ、地上波のような規制がないからかもしれません。でもこのままだと、ネットテレビは新手の大政翼賛会の根城になってしまうような、悪い予感がします。そんな中、NHKも民放も、それぞれのスタイルを持って、ネットテレビの世界で戦わないと。

ところで、また最近見ちゃったんですよ、お金が貯まる人は長財布を使っている、とか言ってる嘘記事「年収1000万円超の人が持つ財布の3つの特徴」。長財布を使う理由が、お金が気持ちの良い状態で滞在してもらうことができるからだって。馬ッ鹿じゃないの。マネーコンサルタントという肩書きの人の記事で、東洋経済オンラインにありました。こんなヨタ記事。日本のスタイルに関する記事って、こんなものかと毎度悲しくなりました。

一方で、何かと話題の文春オンライン。その中で拝読している、一橋大学楠木建教授のブログには共感しました。

楠木建の読書遍歴と「芸論」への偏愛」 http://bunshun.jp/articles/-/6430

 読書論から始まり、作家・小林信彦さんの芸論への愛を語っていらっしゃいます。芸論という言葉、僕には芸談という言葉がしっくりきますね。若い頃の永六輔さんの芸談本は素敵です。また聞き書きというか、採録のうまさは伊丹十三さんも、このお二人に伍するレベルかと。

楠木教授がギリシア人のコラムニスト、タキ・テオドラコプロスの「ハイ・ライフ」から「スタイルとは何か」という文章を引用しています。(いい本ですが、文庫版の中古のみ入手可能です。この本に集録されている文章は、コラムとしてアメリカのカルチャー・ライフスタイル関連雑誌に掲載されていたもの。この手の雑誌って、今の日本では人気無いですもんね。もったいない。僕は「ジェットセッター」という言葉をこの本で初めて知りました。)

「彼(筆者注:タキ)の本から直接引用すると、「だれも知らない。が、見ればそれとわかるのがスタイルだ」「抽象的な性格のもので、持っている人は持っているし、持っていない人は持っていない」「見せかけの反対」「深みのある人格が知らず識らずのうちににじみ出て、なにもしなくてもいつの間にかまわりの人間の関心を集めている」「本物たらんと意識的に努力しなくても本物たりえている人間は、だれでもスタイルを持っている」のである。」

そして楠木さんは「スタイルとは要するに芸風だ」と、うまいことをおっしゃる。

2018年版のケネス・ブラナー扮するポワロのヒゲは、逆ガル翼の如く、ピンと逆立っておりました。格闘も拒まないポワロの姿勢かと。ペッパーくんも芸風を探してるところなのかな。頑張れ!アトムは上半身裸だったよ。芸風を出そうじゃありませんか、皆さん。

これって本当?〜平等と不寛容は異なる

年に一度の楽しみ、アカデミー賞授賞式が終わりました。90回を迎えた今回は、一連のセクハラ問題がどのように扱われるのかも注目されていました。
司会のジミー・キンメルの姿勢と、各受賞者とそのスピーチ(“Three Billborads Outside Ebbing, Missouri”で主演女優賞を受賞したフランシス・マクドーマンドさんのスピーチは圧巻)、そして受賞作に多様性が見出せる結果を見せることで、その答えを提示したように感じました。たかが映画の賞と侮ること無かれ。アメリカの巨大な輸出産業ですから。毎度ながらWOWOWで、朝の生放送と夜の字幕版、両方観て、堪能しました。

 

ちょうど、同じ日。参議院予算委員会で、働き方改革や所謂モリカケ疑惑を巡っての議論が行われていました。ご存知の通り、今も続く焦点の一つが「忖度」。財務省厚生労働省の官僚がモラル無き忖度の結果、首相に都合のいい数字や書類を作っているという指摘。官僚たちは本当に首相に阿っているのでしょうか。
ちょっと前まで、官僚の給与が高過ぎるとか、待遇が良すぎるとか、さまざまな批判を繰り広げてられていました。さらに公立学校の教職員や、NHK職員など公的な職業だと思われている人たちにも同様の批判が、執拗に向けられていました。結果、給与が下げられたり、待遇が変わったり、通例だった人事の流れが変わったりしました。そう、高級官僚と括られる人々の退職後の転職、天下りの制限などです。もちろん、天下りにも問題はあります。それに伴い、許認可等への影響が取り沙汰されるからです。でも、はっきり言って、超ブラックな環境で安い給与で働く官僚の唯一の希望は、退官後の天下りで、公僕として得られなかった待遇(=お金)を取り戻すことだったのではないでしょうか。
そうなれない人がいるのだから、不公平だって?運が良かったかも知れませんが、そもそも精一杯、その人の能力を発揮できるように働いた人が、それに応じた報酬を得ることに何の問題があるのでしょう。機会均等と結果としての平等は、意味が異なります。暴論かしら。
官僚のモラルを破壊したのは安倍首相でしょうか。そうかもしれません。でも、なんでもかんでも首相のせいにするのはやめましょう。官僚が首相の意向に阿っているとすれば、それは役人は安い給与で働いて当たり前と、批判し続けたからなのでは。それこそ、働き方改革とセットで待遇を変えていかないと、ブラック度合いだけが進行します。
平等であることは機会が均等であることだと思います。前提です。しかし、他人の状況への不寛容、特に自分より何かが上だと感じられることへの不寛容は、単なる嫉妬です。結果を見て、時間を遡った感情を今に持ち込むことです。今さら、どうにもならない。
人に媚びへつらおうと、サボタージュぎりぎりの働き方をしようと、または身体的など何らかの理由によって精一杯働けない働き方をせざるを得ない人と、いろいろな状況をあることを許しましょう。その結果は、それぞれにもたらされるものは一概に同じにはできない。だから、いろいろな“救い方”を設けるべきです。極端なことを言えば、敗者復活戦に参加できる社会にすることです。

異なること、他と違うことを許さない社会になっているように感じます。企業では、そういう時に、コンプライアンス上の懸念という名の一律を強いるのは、全くもっておかしい。今、そこにあるルールと異なった状況があった場合、直ぐに他と異なるから、やめましょうということが多いように感じます。違いこそが最も評価されることなのでは。均質を求めて、組織を自分が知っている人で固める派閥人事を行い、タコツボ化をもたらすだけになっている企業が多いように感じます。

高品質が売り物だった日本製品の品質を疑わせる、大企業におけるデータ偽装事件が続いています。日本製品は高品質だという見かけはハリボテのようなもので、実際は足元から揺らいでいる状態。そう思いたいという気持ちだけが残っているだけなのかもしれません。まるで旧日本軍が主観的願望を客観的事実にすり替えて、戦争の見通しを立てていたとのと同じ。この旧日本軍の指導者たちの為体は、均質な組織、異質な人を排除した結果出来上がった組織の結果だという説もあります。
この不祥事の連続は、日本社会が、違いを許さない不寛容な社会になりつつある証左なのではないかと思うと恐ろしくなります。失われた10年の最悪のガンクは、この不寛容なのではないでしょうか。

アカデミー賞授賞式に、“In Memoriam”という過去1年の間に亡くなった方を追悼するコーナーがあります。音楽と共に、その方々の肖像がスクリーンに映しだされます。その一人として、初代ゴジラの中の人、スーツアクター中島春雄さんのお姿が登場しました。思わず、あっと叫びそうになりました。スーツアクターモーションアクターが、俳優としてアカデミー賞の候補とすべきかという議論があります。2011年公開「猿の惑星:創世記」から始まるリブート三部作で主人公の猿であるシーザーを演じたアンディ・サーキスを巡っての議論です。中島さんの扱いは、この議論の結論が出る兆候かも知れませんね。ここでも一歩、前に進んでいることを感じさせられました。

 
受賞式のクライマックス、作品賞の発表で、ギレルモ・デル・トロ監督の作品“The Shape of Water”が受賞しました。そのシーンを受けた日本のスタジオで映画評論家の町山智浩さんが感極まっていました。やっと、このような作品が認めれられるようになった。いろいろなことが変わります、と。
黒人が主人公だとか、LGBTが主題だとか、怪獣やゾンビが出てくるとか、女性監督の作品だとか、そういう作品はヒットしない、またはアカデミー賞の候補にならないという一線は、昨日をもって無くなったのです。デル・トロ監督のスピーチにありましたが、多様性とその寛容が、映画にあらゆる境界線を越えさせることを見せた日でした。
そんな日でしたが、僕は突然、藤子・F・不二雄さんのSF短編「老年期の終り」(1978年)を思い出しました。若い人がどんどん減る。働くことを避けるようになる。他人との違いを許さない。
これって、なんとかしましょうよ。

 

追伸:念の為、申し上げておきますが、安倍首相に何らかのシンパシーを感じているものではありません。

これって本当?〜物差しのない批評は意味無し

ブログなど、インターネットで意見を公開している人の目的の一つは、イチャモンを公開することによって、溜飲を下げるという効果を求めていると言っていいかと思います。でも人を切ると、返す刀で自分が傷つくことがあります。インターネットで調べ物をしていると、そのことに関連するブログ、それも一般の皆さん(私ももちろんその一人です)のブログやSNSを見て、おいおい何言ってんだよ、と思うことが多いので、私もそこに着目して、憂さ晴らしをさせていただこうと。

まずは素人さんの例ではないのですが、プロなのに事実確認が素人並以下という話。Instagramでフォローしているアカウントの一つに、某Tカレンダーというグルメ雑誌(かなぁ。妄想ヨタ記事雑誌かなぁ)があります。しかし、ここ最近、間違いというか適当な記事が多くて、見るのが楽しいのです。
麻布十番にある甘味屋の出汁巻卵(もどき)を挟んだサンドイッチについて、「昭和7年創業当時から提供を続けるテッパン手土産」と書いてあるのですが、そもそも昭和7年頃に出汁巻卵という料理は存在していないでしょう。また、その頃に手土産という行為というか習慣、一般庶民がわざわざ住んでいる地域と別の地域の店に行って買って、そしてまた別の地域の他人を訪問するなどという習慣はないですね。


また別の日には、新橋駅前のビルにあるビーフンで有名な店について、そのビーフンが「皇室、文豪、政財界など各界の著名人に愛されてきた一品だ」とあります。これは本当でしょうか。このお店の紹介には、このような惹句が使われることが多いようです。しかし、少なくとも皇族のどなたかがお食べになったという記録がどこかにあるのか。でも発見できませんでした。どなたか、ご存知でしょうか。
調べていると、このお店のもう一つの名物、ちまきについての記述に、皇室というキーワードが出てきます。このちまきは、餅米に具を入れて竹の葉で包み、蒸したもの。いわゆる中華ちまきですが、これが昭和天皇園遊会のメニューになったというように書いている(=どこからか引用している)ブロガー(=食べログのひと)がいます。この話が、「皇室に愛されてきた」というように、変わってきたようにも思えます。でも、これも事実かなぁ。確かに昭和天皇の御代の昭和41年、園遊会のメニューに「ちまき」がありました。でも「ちまき寿司」と呼ばれているので、おそらく酢で〆た魚を酢飯と合わせて笹で巻いたもので、中華ちまきとは全く異なるものだと思います。それに、わざわざ園遊会のメニューに、宮内庁大膳課が新橋の店の中華ちまきを選ぶとは思えないし。もう少し、調べてみたいと思います。

ちなみに、私、どちらのお店にも、なんらの遺恨もありません。単純に調べてみたいから、というだけのことです。悪しからず。

 

私、映画監督クリストファー・ノーランのファンです。彼の作品を観るために、日本にはないIMAXのフィルム上映館がある、台湾かオーストラリアに行ってしまいたくなる今日この頃です。さて、彼の作品、バットマン三部作の一つ、「ダークナイト・ライジング(2012年:The Dark Knight Rises)」に厳しい星をつけている(個人ブログページの星なんてねぇ)ブログの中に、ストーリーが破綻しているという記述があります。その例として(物語は端折ります)「悪人によってゴッサム・シティが閉鎖されたら、そもそも州兵など軍隊が出てくるはず。そんなことを無視している演出が変。」とありますが、あなた、そもそもバットマンが存在している前提の話でしょう。現実的ではないことを承知なのでは。こういう人は映画を観るのをやめたほうがいいですよね。クリストファー・ノーランはストーリーの中でこじつけが多いとか、ストーリー性が弱いなんて、いわゆるプロの批評家を書いているのをどっかで見たのでしょうか。

 

Instagramで親切おじさんぶりを発揮しているトム・ハンクス主演の「インフェルノ(2016年:Inferno)」。天才IT大富豪が地球人口を半減させない限り人類には未来は無いという考えから、致死性の高いウィルスを開発。その行方を巡って、ストーリーが展開します。あるブログが駄作だと断じておりました理由は、有り得ない人物設定のためだとあります。ラングドン教授を助けるようで、実はこのウィルスを使ってテロを起こそうとする、IT大富豪の恋人であった医者役としてフェリシティ・ジョーンズが登場します。医者のような頭のいい人が、このアイディアを信じるなんて有り得ない、人物設定がいい加減とありました。このブログの書き手は、いわゆる頭のいい人たちがオウム心理教に入信し、意図的に無辜の人たちを手にかけてしまうサリン研究をしていたことを知らないのでしょうか。中途半端に頭のいい人は論理的に見える結論に弱いのです。 

  

最近、あんまり寒いので、蟹と温泉を求めて豪雪の北陸に参りました。温泉旅館の連泊を初体験。中日にお部屋の布団を敷いたままにしていただいて、部屋にある露天風呂に入ったり、大きな露天風呂に入ったりしてダラダラ過ごしました。蟹も美味しくて、すっかりリフレッシュ。さて、その旅館について、ある旅行サイトに「料理も普通だし、部屋もパークハイアットより狭いのに高い」という趣旨の書き込みがありました。この旅館とパークハイアット東京の内装を手がけた建築家を知っていると匂わせたいのでしょうか。しかし、料理が普通という批評(にもなっていませんが)は、まず最低。意味無し。あなた様が美味いと思ったもの書いてみ、と言いたいし、そもそも「パーク・ハイアット」より狭い、ってどういう意味?旅館とホテルの客室の広さの比較?意味あるの?訳知り人を装うと、底の浅さがすぐに露呈します。

出展がいい加減なものは当然有り得無いのですが、やっぱり、意見を公開するなら、批評するなら、自分の物差しがわかるように書きましょう。そして、無責任な引用をやめましょう。自戒を込めて。

所詮、極端な好き嫌いが面白いのが、個人ブログなのですが。